ドラマ「マラソン」

自閉症の青年が主人公のドラマ「マラソン」家族で見ました。二宮和也さんの演技がとてもリアルだったので、バーチャンは「自閉症の人が演ってるんか?」と聞いてきました。
いろいろと、感じるところの多いドラマでしたね。

ドラマ「マラソン」
http://www.tbs.co.jp/drama-marathon/

監修の辻井正次先生のコメントから一部引用

今まで、自閉症者の演技とかで、動きだけを真似した演技はあっても、ここまで自閉症青年のかわいい感じが自然に表れたものを見たことがありません。もちろん、自閉症の方も姿は様々で、こういうものがあるというわけではないのですが、特に今回の彰太郎のような知的障害 (理解力の遅れ) を伴う場合、何かへの取り組みを覚えたりするのに時間がかかるし、周囲の場に合ったような自然な対応はできませんが、それでも教えられたやり方で一所懸命やろうとしたり、不器用な人への関わりの仕方に、特有のかわいい感じがあるものです。それを演じようとするとわざとらしい感じになるようなのですが、二宮君の演技はそんなところが全くなく、あまりに自閉症青年そのものでした。

ドラマの中の、いくつかのシーンや、上の辻井先生のコメントなどを拝読して、「特有のかわいさ」というところに、僕だけでなく、多くの方が、そう感じただろうなと思いました。
そのかわいさ=良いイメージという捉えかたに対しては、知的障害のある娘を持つ親として、これからも意識する場面が、いろいろあるだろうなと感じます。

ドラマのシーンで、母が、笑顔を作らせようと、鏡を見せて、口を指で引っ張って、笑顔作らせるところ、何気ないシーンですが、とてもリアルに感じました。記憶に残るシーンですね。周囲に受け入れてもらう為に、内面はどうであれ、受け入れてもらい易い雰囲気を作り出す為の練習と言うのか、悲しいようなおかしいような場面でした。
実際に、障害のある無しに関わらず、相手の内面や感情というものを理解する時、顔の表情の果たす役割はとても大きいですね。
唯一彼の内面をイメージ化したような、ラストのマラソンで、倒れてしまって、上を見上げた時に、母のやさしく呼びかけ、手を差し伸べる姿がイメージされるシーン、うまく復活するけれど、実際に彼の内面は、どうであるのか、イメージとして描けるのか、彼が本当に母の喜ぶ姿を見たいが為だけに走っているのか、自分の目的意識があって走っているのか、想像の域を出ないところですね。この辺りも、ドラマだから仕方が無いのかもしれませんが、少し美化しすぎていると思いますね。
彼がどう感じているのか、結論つけるのではなく、周囲の人間が、様々な反応から、それを想像し、関わっていく事の方が重要かなと思います。
子供の頃のエピソードで、倒れた彼を励まして、好物のパンを手に誘導するシーンがありましたが、あの感じの方がリアルですね。
最近、いくつかの自閉症テーマのドラマ見てきましたが、ほとんどが、母子中心の設定で、ドラマとしては、その方が作りやすいのかもしれませんが、ステレオタイプな印象を受けますね。