僕の歩く道

自閉症の青年が主人公のドラマなので、アーチャンのprader-willi症候群も自閉的傾向があると言われるし、その面で気にしながら見ている。ストーリーは、ステレオタイプすぎますね。
以前、「顔の倒立効果」(倒立した顔を見ると健常者の場合は表情が読みとりにくくなる)が自閉症の場合、働き難いという研究を読んで、アーチャンにも、そんな風な傾向が少し見られたので、気にしていた。今日も、定期検診に向かう電車の中で、お気に入りの耳鼻科の先生の似顔絵描いていて、顔を描いてから、反対に向けて、髪の毛とか頭のところ描いていたので(プレゼントしたので画像は無し)、顔の認識が、顔をシンボルとして捉える働きが弱いのだろうかと感じた。
ドラマ見ていて、ドラマの製作者の意図なのか偶然なのか、繰り返しアップで映し出される輝明さんの自宅が、二つの出窓が目で、玄関ドアのところが口のような表情をしていて、これは、輝明さんが少しづつ社会性を獲得していくところと関連させているのかと空想した。
建築家の灘波先生が紹介されていた、ダニエル・リベスキンドの著作「ブレイキング・グラウンド」の第五章は「顔」をテーマに、記述されている。僕も共感する、顔/カオス的世界ですね。一部引用。僕はリベスキンドさんのような建築は、むしろこのような顔的な世界を解体するような作用があるものと思っていたから意外でした。顔のような根源的なものへの言及は、その人の本質を露にしますね。

18世紀から19世紀にかけて、科学者たちは、顔の構造に基づく人間の性格の識別と分類を可能にしようとして、観相学という学問を研究したが、もちろんその取り組みは失敗に終った。実際には、あなたが人の顔を見る際、あなたが本当に見ているものとは、その顔が見ているものなのである。だから自分自身の顔を考えなくてはならない。何かを見つめるとき、たとえそれが無生物であっても、向こうからこちらを見返してくることがある。そしてその瞬間、空間内である種のコミュニケーションが成立し、自分の顔も相手に反応して変化している。同じ事は建物の場合にも起こる。建物は単にファサードではなく、我々に差し出される、または我々から背けられる顔を持つのである。

ブレイキング・グラウンド―人生と建築の冒険

ブレイキング・グラウンド―人生と建築の冒険