小松原 智史「ばける|きえる|うけいれる」
小松原 智史「ばける|きえる|うけいれる」
The three konohanaでの3年ぶりの個展を拝見しました。
小松原 智史「ばける|きえる|うけいれる」
https://thethree.net/exhibitions/5983?fbclid=IwAR38mgsWJ4BSGlXn2eJNRVNOSQJGkp8fTGnn_iN3owuPWVn4TLGQ-hKJRRw
The three konohanaのwebより引用
前回までの、会場でのライブペインティングによる成長する作品の表現方法は無くなり、展示の初期から複数回、作品を時系列で観ることもありませんでした。
前回、ここで拝見した、「巣をたてる」展の複雑なインスタレーション的な表現に対して、私は下記のように記録していました。
小松原智史 巣をたてる
https://prader-willi.hatenablog.com/entry/20190105/art
2012年の「リアリティとの戯れ-Figurative Paintings-」展で小松原さんの作品含めて全体的に感じた、観察者中心座標系をいかに壊すことが出来るのか、という印象が、その時はまだ小さい揺れのようなものであったのが、今回は振幅を強めついに通常の絵画的な平面がねじれ浮遊し始めていました。
「観察者中心座標系をいかに壊すことが出来るのか」ということは、個人的にはとても重要な事と考えていますし、また絵画を介してのセラピー的な効果のエビデンスの一つの要素となるものと思います。
「巣をたてる」展の複雑なインスタレーション的な表現から、今回の「ばける|きえる|うけいれる」 展は表現の方法が大きく変わり、とても静かな印象がありましたが、表現のコアな部分とも感じる、「観察者中心座標系をいかに壊すことが出来るのか」については、むしろ今回の作品群の方がより明確に、意識されているように感じました。
伺う前に、個人的な案件で私はストレスmaxな精神状態で(自宅の立退き要請に対して弁護士に長時間相談)、日を改めるか迷うほどでしたが、娘が小松原さんとの再会をとても楽しみにしていましたので、合流し伺いましたが、作品を拝見していくうちに、視界が明るく開けていき、心が落ち着いていくのを感じました。
比較すると、前回までの、作品自体が複雑な座標系を構成していく、作者自身の観察者中心座標系の壊れていく様、を観客として観る時に、 むしろ環境中心座標系の混乱と感じられて、観る側の観察者中心座標系を安定化させる作用が生じている印象があったと思います。
では、何故、今回の静かな印象の作品群に、セラピー効果=「(観察者の)観察者中心座標系をいかに壊すことが出来るのか」をより感じたのか、会場では充分に理解はできませんでした。
それで、作品から感じた印象をもとに、下記のような図を記すことで理解を深めてみました。
手掛かりとして、会場で小松原さんに、上下はあるのですかとお聞きしたところ、描いて手の届かない範囲は絵を動かして描くとの事で、平面での上下は無いようでした。(画面描画時のX軸、Y軸)
垂直方向のZ軸は描画によるものではなく、どちらかと言えば絵の具の物質的な盛り上がりであったり、和紙の重なりによるものと感じる。
これらが、展示室の壁面に展示される時に、座標系の変換が重力により自動的に生じてくる。そして、Z軸はY軸に変換されるか、Z軸のままであるかは、観客の視点であったり、作品への理解度などにより、個別にカスタマイズされていき、その変換の揺れが、観察者中心座標系の混乱からの浮遊感を産んでいるのではと推測した。
その変換の揺れから、the three konohanaで最初に拝見した、「エノマノコノマノエ」展で感じた、排他的論理和な構成を連想しました。
私は下記のように記録していました。少し長いですが引用します。
Konohana’s Eye #6 小松原 智史 展 「エノマノコノマノエ」
https://prader-willi.hatenablog.com/entry/20141129/art
そこでお聞きした、言葉の意味は自分が考えた内容の通り伝わらない、間違って伝わる危険性があり、そこから絵画においても、意図的に間違った部分と伝えたい部分とを混在させているとのお話からいくつか連想しました。
少し前に、私の長女を京都大学こころの未来研究センターの正高信男先生の療育で観ていただいてた際に、担当の大学院生さんから、長女の振舞に関連して、最近の研究で自閉症の人の思考パターンで判明してきた事についてお話いただいたのですが、特徴として排他的論理和的な思考が困難であると。
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20101002/ryouiku
『例えば、誰かが大きな声で怒っている場面に遭遇すると、こわい思いを感じるが、自分ではない他の子を怒っているということが分かれば、こわいとは感じない。そんな風に、自分に対しての関係なのか、他人に対しての事なのか、定型発達の子は理解できているが、自閉症の場合、その区分がよく出来ていない場合がある。(その図式=排他的論理和=与えられた2つの命題のいずれかただ1つのみが真であるときに真となる論理演算)
場所の概念も同じ原理。家での振舞と学校とでは違う対応になるはずのものが、区別がきちんとできていない為に、社会への適応で躓いてしまう。ここが、自閉症の場合の一番のポイントではないか』
和室で他の観客の方が小松原さんのお話を、禅問答のようだと言われていましたが、私は上記の排他的論理和的思考を連想していました。
排他的論理和=与えられた2つの命題のいずれかただ1つのみが真であるときに真となる論理演算では、二つの命題がいずれもが同じ場合は(真、真=偽)(偽、偽=偽)であり、(真、偽=真)(偽、真=真)となる論理演算であり、小松原さんの「意図的に間違った部分と伝えたい部分とを混在させている」は、後者の(真、偽=真)(偽、真=真)ではないかと思います。
前回の作品群から、大きく表現方法を変異させたように、外形的には見えますが、芯の部分の方法は揺るがず、さらなる方法を産み出された印象があります。
素晴らしい作品群、感謝です。