小松原智史 「巣をたてる」展 レビュー

The three konohanaさんの「ttk experiment」として再開された展示は小松原さんの滞在制作により会期中変化成長し続ける作品でした。

小松原智史 巣をたてる
http://thethree.net/exhibitions/5049
The three konohanaのwebより引用

制作が始まった初期の状態と会期末の状態と、さらに会期終了直後に作者交えての対話型鑑賞会にも参加と、作品世界を理解するのに理想的な環境を体験できましたし、また作品自体も複数回参加したくなるクオリティでした。


過去、なんばパークスでの「リアリティとの戯れ-Figurative Paintings-」展、the three konohanaでの2度の個展拝見して、その都度新たな制作の方法が付加されていましたし今回の展示で、より複雑に積み重ねられた論理を感じました。

2012年の「リアリティとの戯れ-Figurative Paintings-」展で小松原さんの作品含めて全体的に感じた、観察者中心座標系をいかに壊すことが出来るのか、という印象が、その時はまだ小さい揺れのようなものであったのが、今回は振幅を強めついに通常の絵画的な平面がねじれ浮遊し始めていました。

「リアリティとの戯れ-Figurative Paintings-」展で感じた印象を私は下記のように記していました。長いですが一部引用。

「リアリティとの戯れ-Figurative Paintings-」展
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20120325/art

(キュレーターの山中俊広さんが)1980年代生まれのアーティストを選ばれた理由として、95年頃の彼らが青少年期に経験した大きな社会的事件やエヴァンゲリオンのような内向的なアニメーション等のイメージの影響がはっきりしていることがあるようです。
私自身は年齢的にはずっと上ですが、独立したのは95年だし、年末退職して2週間後にあの阪神淡路大震災に遭遇し、人生観大いに影響受けましたから、そこから類推するに、その時15歳くらいの彼らにとっては、幸か不幸か分りませんが、あらゆるものが揺らいでいるような、そんな経験がベースになっているのだと思います。それ故か描かれている作品世界に共通して感じる夢分析のような、断片的で不安げなイメージ。彼らにとって、おそらく描かれた作品は自分自身の無意識世界を視覚化するものでもあるだろうし、しかしその深い意味は自分自身でも捉えきれないところがあるような、仮縫いのような状態で表現は留まっている。個人的な経験の吐露のようでもあるが、こうしてキュレーターのアイデアによって集合し、ギャラリー空間に置かれて観られる事で新しい経路に開かれていくような予感もある。その時にやはりキュレーターさんの役割はとても大きいものと思います。
会場でアンケートがあったので、僕は感じたまま書き込みました。
(私の)娘のアーチャンのように脳に変異があって、明らかに視覚認知の観察者中心座標系がうまく機能していなくて、構成障害のような固定的な焦点を持った絵画や重なり図が描けない人のアート(いわゆるアウトサイダーアートやアールブリュットという括りの)を継続して見てきたので、ナチュラルに構成障害的な表現のアートと、その魅力を意識的に取り入れて構成障害的表現を構成しているようなアートの違いみたいなことを感じ易くなっているし、常に頭から離れない意識のようになっている。そして、少しずつではあるけれど、それらは峻別可能だし、分類されるべきものなのかもしれないし、構成障害的表現をある意味偽装しているようなアートと言ってしまうと比喩は適切でないかもしれないけれど、その偽装のようなものに、ある意味で希望のようなものが見えてこないかと思い始めている。
むしろ観察者中心座標系をいかに壊す事ができるのか、どのような方法があるのだろうか、そのような探索に深い意味(リアリティ)があるのではないか、そんな風に思い始めている。
それは逆にアーチャンへのアートセラピー通じての、観察者中心座標系の変異から、いま、ここ的感覚の獲得への介入の、こちら側からのジャンプのように。

次に拝見した2014年の「エノマノコノマノエ」展で、おそらくその揺れの始点というのか、揺れのキックオフが何によって生じるのか、という思いからか、次のような対比を記していました。
ここで対比として記した具体グループのアートを私はその揺れのキックオフのエネルギーを、外部的な流動的な連続体のようなもの(例えば白髪一雄氏の脚によるアクションペインティングのような)と感じ、具体グループのアートはそれを個人のもしくは人間の枠を超えるものとして導入しつつ、そこにシンボル的な離散的な言語的とも言えるようなコーティングを施しているように、今思い出すと、そう感じていたと思います。
それに対して小松原さんの方法は、そのようなキックオフのエネルギーとしての流動的な連続体の導入は無しで(結局それらは決定論的な場を構成してしまうのではないか)、むしろシンボル的な離散的なものによる連続体を逆に編み出していく方法を取られているように感じています。
長いですが引用します。

Konohana’s Eye #6 小松原 智史 展 「エノマノコノマノエ」
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20141129/art

20世紀の現代アートのひとつの到達点として、具体美術の活動や思考があると感じていますが、彼らのコアな部分に対して、私は、「非決定論的な人間存在をメタ認知する装置としての無意識的な機械的決定論的方法」と推測していて、その方法は、ある意味でどこでも同一の表現に到達できる素晴らしい方法であると同時に、異なる環境において、コミュニケーションの回路を有効に持ちえていない、環境から分離された方法では無いかと感じています。
それはとても魅力的な方法ですし、嵌るとそこから離脱することはとても困難な、麻薬的な方法とさえ感じます。
それとは異なる回路として、「非決定論的な人間存在をメタ認知する装置としての無意識的な非決定論的方法」が有り得るのではないかと思いますし、小松原さんの作品世界が、まだ漠然としてですが、その一端を見せてくれたように感じました。
排他的論理和的思考と、非決定論的方法という、人間にとってとても日常的で普通の穏やかな思考とも言えるものから、何故このようなイメージが生じてくるのか、様々な示唆を感じます。

次の、2016年の「コノマエノコマノエ」展で、この時も会場の横幅10m程の壁面に2ヶ月近く制作し続けられた作品を継続して拝見できて、とても良い体験となりました。
その時に感じた、別のギャラリーでほぼ同時に拝見していた杉山卓朗さんの「Loop」展の、外観はまったく異なりますが、制作のあり方や思想のなかに共通したものに対して下記のように記していました。

Konohana’s Eye #13 小松原智史「コノマエノコマノエ」展
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20161015/art

杉山さんの作品では文字の断片のようにYやJや→のように見える部分も感じるのでお聞きすると、制作ノート見せていただき、文字を立体化した過去のドローイング作品から、文字の基本的な構造は捨てて、輪郭のある特徴を持った部分のみ抽出して、再構成されたものとのお話でした。(略)
その時、文字も人体もよく似ているなと気付きました。どちらもスケール非依存で、どれだけ大きくても小さくても、文字は文字として、人体は人体として認知されるが、それ以外の存在物であれば、スケール依存的で、巨大化すればその意味は変貌してしまう、不思議な性質を持っていると言える。
そして、それらの断片も同様の性質を引き継いでいるように思われる。ではその性質はギリギリどこまで引き継がれるのか、断片化の試みはとても興味深い。

杉山さんの作品が、グラフィティと物質的なものの断片の複雑な混成系であるとすれば、小松原さんの作品は、言語文字以前のピクトグラム的なものと物質的なものの断片の複雑な混成系ではないだろうかと感じます。

その後のお二人の作品の変化を拝見すると、より分離困難な強固な揺るがない方向に、ある意味で両界曼荼羅のような表現へと踏み込んだ杉山さんに対して、小松原さんの作品はより離散的なイメージへと変貌しているように感じます。
でも、両者ともに、そこに感じる視覚認知通じてのセラピー的なイメージは保持し変わらない印象がありました。

今回の展示に対して感じた事として、
和紙に墨で描かれた抽象度の高い図と細い直線の角材と合板の組み合わせから、具象性が濃くなった図としなやかな竹の支持体と、あとグルーガンによる3Dドローイングの試みへと変化していました。
その変化は連続的であり、端緒のイメージを保持し続けていて、かつ全体像の獲得は拡張により困難となっていて、連続体と観る人の関係性により生じる切り取りにより離散的である。そこに、小さな四角い鏡が何枚か挿入されて、離散的なイメージを補強している。


そして、全て自分一人で制作されていますが、いずれ共同制作の方法へと進む為の試みのようにも感じます。構想のサイズが既に個人のスケールを超えつつある。

展示後の解体撤収が本当に惜しまれる、素晴らしい作品、感謝です。