岡本 啓 展「Visible ≡ Invisible」

the three konohanaへ行き岡本 啓 展「Visible ≡ Invisible」を観ました。(2013年11月30日の記録)

岡本 啓 展「Visible ≡ Invisible」
http://thethree.net/exhibitions/past/854
the three konohanaのHPより引用

岡本さんの作品は昨年の大和郡山でのhanarart展の旧川本邸での展示で拝見していました。これで参加されていた5名のアーティストさんの個展全て観る事が出来ました。
全員の個展をその後に観てみたいと思わせるだけのインパクトが、それぞれのアーティストさんと、旧川本邸での全体のコンセプトにあったし、自分の中のとっくに古くなってしまった思考を今も揺さぶり続けているように感じています。

hanarart展の旧川本邸での展示の感想で岡本作品については、こんな風に書いていました。

http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20121103/art
「ここでは上の階へは入場禁止になっているので、踏込む事はありませんが、頭の中では、イメージの中に入り込み、踏みつけていくような姿を連想した。繋がった全体像を暴力的に断片化するイメージなのか、もしくはその逆に引いてみる事で、全体像を回復しようと促すものであるのか、見た人の関るその時の心象に付託されている。」

「(他のアーティストも同様に)いずれの作品にも共通して感じられたのは、作品世界へ一歩踏込むことで、そのイメージの中へ没入していき、同時に意識の世界へ戻ってこれる体験を産み出していて、この旧川本邸の空間の特性を活かしつつ、仮設ではあるけれど、恒久的に在っても許せるクオリティとなっていた事ですね。」

旧川本邸での階段の作品が印象的だったし、段を踏んでいくイメージを空想していたので、ひょっとして、今回のthe three konohanaでの展覧会では、会場の入口すぐにある階段に作品が設置されて、体験できるのではないかと期待していたのですが、まったく異なる様相の展示でした。

旧川本邸での印画紙を使ったフォトグラム作品のような鮮やかな色彩は一切無く、モノトーンの写真作品や、小さなオブジェ群の多様なイメージを、直ぐには理解することが出来なくて、戸惑いました。

ギャラリーの山中さんから「風景」「二次創作(表層を剥いた小さなフィギュア群)」というコンセプトを解説していただいて、少しずつ理解が進みました。
でも、私には難しく、トークショーで再訪し、岡本さんにも直接作品についてお聞きすることで、理解が深まりました。

ギャラリー内の作品群を観て、自分なりに感じたのは、「ものの大きさへの態度」のようなもの。

一般的なネガポジの写真表現の場合は特に、原像とも言うべきオリジナルサイズが曖昧な状態になっている。ネガとそれを倍率によってプリントした印画紙のサイズであったり、またネット上の表現であればモニターのサイズに依存したりと、常に相対的なものとなっていく。

岡本さんが過去、フォトグラムの作品をずっと作ってこられたのは、身体を間接的に介することでのスケールの固定化、ある意味でのゼロ地点の召喚の為の方法のように感じました。
(私が敬愛する20世紀のアーティスト、デユシャンの初期の作品「三つの停止原基」を連想する。メートル原基へのオマージュとしての1mの紐を1mの高さから落下して出来た自由曲線を新たな世界の尺度とする)

そして、岡本さんの今回の作品群は、そこから再度、大きさの曖昧な世界へと、しかし単純にスケールの曖昧なネガと印画紙の関係のような世界ではなくて、ある意味でのゼロ地点の召喚とは異なる関係を見出そうとするトライのように感じました。

「二次創作(表層を剥いた小さなフィギュア群)」は、その点で、とても刺激的な作品と感じます。
絵画や二次元作品の二次創作は、作者の内部的な変換を介して、新たな表現となっていくし、アールブリュットの作家たちにとっては基本的な方法だし、比較的よく見ることのできるポピュラーな方法と言える。
しかし、三次元の作品の二次創作については、私の中にはそれほど多くの情報が無くて、例えば淀川テクニックのような、廃棄物アートと呼ばれるものくらいしか手懸りが無い。淀川テクニックさんの場合は、ある意味でのゼロ地点の召喚の為の方法と言えるような、淀川の河川敷というような特定の場所性を帯びる事で、また同じ時間変異のベクトルをまとうことでの、オリジナルの出自を明確にしつつ、イメージロンダリングが行なわれていると感じてしまう。

岡本さんのフィギュアの表面を剥いでいく方法は、オリジナルの出自を消去させているが、例えばネヴェルソンの廃棄物の家具などを真っ黒に塗りつぶすことで、完全に元のイメージを消去するような方法でなく、ひたすら、それらを曖昧にしていく方向に向けられているように感じました。

ゼロ地点の召喚のような、安心理論なしで、ではどのようにイメージを強度あるものにしていくのか、そのような試みであるように感じました。

再訪した際のトークショーの後、直接、岡本さんからお聞きした「分ることと分らないことの中間の部分が最も分りにくい部分」についてや「見ている筈だけれど記憶から消えている写真を選択する」感覚の話、風景のエンクロージャーの決定についての思考など、とても刺激的な内容でした。

エンクロージャーを確定し、それを存在物で構成していくことは、作品の像を作るのと同等か、もしくはそれよりも困難な思考を要請するだろう。

そこでは作品の置かれる場であったり、ホワイトキューブでの展示の台座なども、とても重要な意味を持ち始める。

旧川本邸の階段に置かれたフォトグラムの作品では、階段自体について思考する必要性が軽減されていて、ゼロ地点を形成しているものと思える。

そこからジャンプする時、どのような様相を呈するのか?可能な方法を求めて、新たな試みをされている姿勢に共鳴します。