Konohana’s Eye #9 伊吹 拓 「Beyond the Screen」

2年前のthe three konohanaさんのオープニングで初めて伊吹さんの作品を拝見して、その描き方や、絵画の可能性について共鳴しましたし、新作を拝見できることはとても嬉しいことですね。
仕事の打合せで四貫島商店街のPORTさんへ行った際に既に拝見しましたが、みっけこのはな2015と連動しての屋外展示を同時に見たくて家族と再訪しました。

Konohana’s Eye #9 伊吹 拓 「Beyond the Screen」
http://thethree.net/exhibitions/2885
the three konohanaのwebより引用

2年前に伊吹さんの作品を初めて拝見した時に、私は下記のようなメモを記していました。(少し長いですが引用)

Konohana’s Eye #1 伊吹 拓 展「“ただなか” にいること」
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20130316/art

来る前に考えていた、具体美術的な、下塗り(dead colorling)がdeadのまま、逆ベクトル的に何かを支えているということに繋がるようにも思え、作品が実は表面ではなく、行為の裏側から見ているのではとの空想に繋がりました。
しかし、伊吹さんの絵画から感じるのは、そのようなdead colorlingなdead感ではなく、やはりliveな輝いたものであり、そこにさらなる転倒、もしくはdeadとliveな世界とが捩れた平面が現われているのではと感じました。そして、立会い者の必要性も、また具体美術的な、仮想のあり得ない平面のようなものの共有の感覚に近いものであるのかもしれないと感じます。しかし、伊吹さんの絵画には、そのような共有を要請しなければ完成困難な部分と同時に、自立した、絵画固有の感触のようなものが、フィギュアなしで成立している部分も混在しており、とても複雑な様相となっていると感じます。
タイトルにある、「ただなかにいること」を絵画のような静止した二次元平面の世界で具現化することには、とてつもない困難が待ち受けているが、挑戦する気概は支持したいし、瑞々しい。静止した二次元平面には大きな制約もあるし限界もありますが、様々な次元の世界を折り畳み重ねることが可能な世界であるし、そこに賭けようとされているのか、注目していきたいですね。
デュシャンの大ガラスのように、もし透明なガラス面もしくは画布に彼が描いたらと空想した。

the three konohanaの作品と野外展示と同時並行して枚方のギャラリーでも個展を開催されていて、そちらは残念ながら見に行くことが出来なかったのですが、ギャラリーのwebに掲載されていた画像を観ると、何点かガラス絵を展示されていて、上記感想の自分の空想と繋がってとても刺激を受けました。
ガラスのいわば透明なグランドは、上記感想に記した「具体美術的な、仮想のあり得ない平面のようなもの」=見えない架空のグランド的な存在を不成立とするような、働きがあるのではと最近思い始めていて、絵画としての完成もしくは未完成いずれであっても作品世界を共有可能なものへと自動的に成立させてしまうような「仮想のあり得ない平面のようなもの」を無効化する有効な方法ではと感じています。
伊吹さんの言われる「ただなかにいること」を作品通じて自分なりに捉えると、身体の行為による感覚(描画)=大きさの無い世界の観察者中心座標のようなものと、そのような行為によって生じる絵画的現象の視覚的な大きさの対象のある環境中心座標系の世界とが、同時に成立しているような、混在しているような印象があります。
今回の展示でのユニークな絵画の置かれ方を観ていると、水平の描画作業そのものの状態の置かれ方のものは、より身体の行為の大きさのない世界に近い観察者中心座標系のようであり、垂直の展示のものは、より視覚的な大きさのある環境中心座標系の世界の成分が多くなっていく印象があります。その成分の傾斜の中に観る人を没入させていくような設えはとても刺激的で、特に屋外の展示ということで、自然環境にそのまま晒されて、変化していく、垂直の作品であっても、その変化していく流動的な大きさの無い世界の成分が増大していく様を想像させてくれる。