小松原智史展「エノマノコノマノエ」

午後、西九条で降りてthe three konohanaさんへ。

Konohana’s Eye #6 小松原 智史 展 「エノマノコノマノエ」
http://thethree.net/category/exhibitions
the three konohanaのwebより引用

小松原智史さんの作品は、山中俊広さんがキュレーターされた2012年の、なんばパークスでの「リアリティとの戯れ-Figurative Paintings-」展で拝見していました。
その時は会場でワークショップしてくださった田岡和也さんの作品を主に手懸りにこんなメモを書いていました。

「リアリティとの戯れ-Figurative Paintings-」展
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20120325/art
『娘のアーチャンのように脳に変異があって、明らかに視覚認知の観察者中心座標系がうまく機能していなくて、構成障害のような固定的な焦点を持った絵画や重なり図が描けない人のアート(いわゆるアウトサイダーアートやアールブリュットという括りの)を継続して見てきたので、ナチュラルに構成障害的な表現のアートと、その魅力を意識的に取り入れて構成障害的表現を構成しているようなアートの違いみたいなことを感じ易くなっているし、常に頭から離れない意識のようになっている。そして、少しずつではあるけれど、それらは峻別可能だし、分類されるべきものなのかもしれないし、構成障害的表現をある意味偽装しているようなアートと言ってしまうと比喩は適切でないかもしれないけれど、その偽装のようなものに、ある意味で希望のようなものが見えてこないかと思い始めている。むしろ観察者中心座標系をいかに壊す事ができるのか、どのような方法があるのだろうか、そのような探索に深い意味(リアリティ)があるのではないか、そんな風に思い始めている。それは逆にアーチャンへのアートセラピー通じての、観察者中心座標系の変異から、いま、ここ的感覚の獲得への介入の、こちら側からのジャンプのように』

田岡さんから作品について詳しくお話いただいたこともあり、田岡さんの作品中心に書いていましたが、会場の他の作家さんの作品も含めての感想だったと思います。
今日、the three konohanaの会場で小松原さんから詳しくお話を伺うことが出来、上記の思いがさらに深化しましたし、また別の観点もプラスされたように感じます。
なんばパークスの時は、ライブパフォーマンス的に会場でドローイングされていて、集中されているので、声を掛け難い雰囲気もありましたし)

階段を登り、会場に入ると天井から吊るされた円筒形のキャンバスが目に入ります。
円筒形の中に入り作品を観た時に、かなり以前にまだ道頓堀にキリン会館がありそこのギャラリーで、束芋さんの作品を見た時の印象が蘇りました。
そこに下記のようなメモを書いていて、小松原さんの作品も同様のイメージなんだろうかと一瞬思いましたが、まったく異なった思考によるものでしたし、円筒形というエンクロージャーの閉じた形態ではなく、人の通れる幅だけカットされていて、より空間とのフィット感があり、良い印象を感じました。(山中さんのお話ではよく束芋さんとの類似性を指摘されるとのことでした)

「キリンアートプロジェクト2005」
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20051119/art
束芋さんの作品は、完成度の高い作品でした。円筒形の大きな走馬灯のようなスクリーンにシームレスに写される、巨大な手と足のパーツが粘土細工のように変形合体分離しながら、気持ちの悪いリズムで、延々と動いている。顔を失った世界が無限に繰り返されるような息苦しいような感触。最後にこれも気持ちの悪い羽根の枚数の多いバッタが出てきて、宙に消えていき、何かに食べられたような音とともに、透明な羽根だけが舞い落ちてきてお終いという構成。見えない存在が決定的な行為をなしていて、エンドレスな世界にとりあえずの終止符、安定のサイクルをもたらすという構図は、個人的には、あまり好きではない。エンドレスにただ繰り返されているだけの映像では作品として成立しなかったのだろうか?」

円筒形のキャンバス作品の次に観た、サイン台の奥に置かれていたミイラのような人体のオブジェも印象的でした。表面に描かれた様々なものの中から、小さな白い鳥のように観えた部分があり、それが観えた瞬間、一種のセラピー的な効果というのか、インパクトを感じました。(眼球運動によるEMDR的なセルフセラピーをすると、そのようなイメージが私の心の中に浮かんできて、トラウマ的な心の有り様が解消されてくるのですが、円筒状のキャンバスの作品を観ることで、そのようなEMDR的なセラピーを既に与えられていて、オブジェで焦点が定まったのかもしれません)
小松原さんに、そのようなセラピー効果のようなものを意識して作られていますかとお聞きすると、むしろそのような焦点が定まるようなイメージを作らないよう、イメージの意味を消していく為に、あえて過剰にイメージを描いて、特定のイメージにならないよう、意味を消していますとのお話でした。
また作品を描く時、倒立像を描く時はそのままのキャンバスの位置で描くのか、もしくはキャンバス自体を回転させて描いているのか、お聞きすると、キャンバスを廻して、特定の視点とならないよう、描いていると。
ギャラリーの奥の和室の畳床を切り込んで埋めるように並べられた不定形の石膏にドローイングされたオブジェと、そこからはみ出すように、ガラスの上に置かれた同様のオブジェの作品群も印象的でした。小松原さんが上を指さされて、天井にも作品がありました。(マーブルな有孔板とパターンが繋がっている、泡宇宙のようなイメージでした)
和室で他の観客と一緒にお話を聞いていると作品のテイストと和室の畳の様式から、自然と正座となってくる。
そこでお聞きした、言葉の意味は自分が考えた内容の通り伝わらない、間違って伝わる危険性があり、そこから絵画においても、意図的に間違った部分と伝えたい部分とを混在させているとのお話からいくつか連想しました。
少し前に、私の長女を京都大学こころの未来研究センターの正高信男先生の療育で観ていただいてた際に、担当の大学院生さんから、長女の振舞に関連して、最近の研究で自閉症の人の思考パターンで判明してきた事についてお話いただいたのですが、特徴として排他的論理和的な思考が困難であると。

http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20101002/ryouiku
『例えば、誰かが大きな声で怒っている場面に遭遇すると、こわい思いを感じるが、自分ではない他の子を怒っているということが分かれば、こわいとは感じない。そんな風に、自分に対しての関係なのか、他人に対しての事なのか、定型発達の子は理解できているが、自閉症の場合、その区分がよく出来ていない場合がある。(その図式=排他的論理和=与えられた2つの命題のいずれかただ1つのみが真であるときに真となる論理演算)
場所の概念も同じ原理。家での振舞と学校とでは違う対応になるはずのものが、区別がきちんとできていない為に、社会への適応で躓いてしまう。ここが、自閉症の場合の一番のポイントではないか』

http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/170720/1/apk04100_057.pdf

和室で他の観客の方が小松原さんのお話を、禅問答のようだと言われていましたが、私は上記の排他的論理和的思考を連想していました。
排他的論理和=与えられた2つの命題のいずれかただ1つのみが真であるときに真となる論理演算では、二つの命題がいずれもが同じ場合は(真、真=偽)(偽、偽=偽)であり、(真、偽=真)(偽、真=真)となる論理演算であり、小松原さんの「意図的に間違った部分と伝えたい部分とを混在させている」は、後者の(真、偽=真)(偽、真=真)ではないかと思います。

こころの未来研究センターの大学院生さんのご研究の、自閉症の人の思考パターンは、しかし異なるシチュエーションでの振る舞いであり、当然のことながら異なる時間、場所、人との出来事ですが、排他的論理和として図式化というかある意味でメタな視点で見ると、真と偽は、同時に配置することが可能となる(排他的論理和のもっとも日常的に見られる回路は、階段のリレースイッチであり、真と偽の場合のみ真=スイッチオンとなり点灯する)
小松原さんが、作る初期条件として、与えられた場にむしろ転化して始めたい的なことをイメージされているようですが、それも環境によって変化していくことの証左であると思います。
「リアリティとの戯れ-Figurative Paintings-」展の感想に私はアールブリュットを偽装すると書いていました。偽装という、誤解を招きかねない表現ですが、私的には否定的な意味ではなく、むしろ積極的な意味として考えています。アールブリュットに対する論理的な批評の不在に対する、自分なりの思考かもしれません。様々な角度からの検証を行なうことは意味があると思います。
20世紀の現代アートのひとつの到達点として、具体美術の活動や思考があると感じていますが、彼らのコアな部分に対して、私は、「非決定論的な人間存在をメタ認知する装置としての無意識的な機械的決定論的方法」と推測していて、その方法は、ある意味でどこでも同一の表現に到達できる素晴らしい方法であると同時に、異なる環境において、コミュニケーションの回路を有効に持ちえていない、環境から分離された方法では無いかと感じています。
それはとても魅力的な方法ですし、嵌るとそこから離脱することはとても困難な、麻薬的な方法とさえ感じます。

それとは異なる回路として、「非決定論的な人間存在をメタ認知する装置としての無意識的な非決定論的方法」が有り得るのではないかと思いますし、小松原さんの作品世界が、まだ漠然としてですが、その一端を見せてくれたように感じました。

排他的論理和的思考と、非決定論的方法という、人間にとってとても日常的で普通の穏やかな思考とも言えるものから、何故このようなイメージが生じてくるのか、様々な示唆を感じます。