the three konohana Director’s Eye #3 「OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR」

この展覧会のキュレーターの長谷川新さんが、私が二十歳前後の頃に(もう40年近くも前ですが)現代アート知るきっかけとなった敬愛する彫刻家の福岡道雄さん含めた80年代のアートの再評価のきっかけになるであろう「無人島にて―「80年代」の彫刻/立体/インスタレーション」展を企画されたことで、その事への敬意と感謝の気持ちがあり、どのような方なのか興味深く、伺いました。
福岡道雄さん達の時代に対する再評価の視線含めて、日本のアート批評の不在というか、様々な問題点を掘り起こし、関わる人々の批評的思考を促すような問題提起を今後も継続してされるのではと期待を感じさせてくれる、素晴らしい展示でした。

the three konohana
Director’s Eye #3 「OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR」
http://thethree.net/exhibitions/2111
(MIRRORの単語は棒線で抹消表示)

作品を見つめつつ、もう40年近く前の自身の記憶を同時に辿っていました。
福岡道雄さんの作品から受けた衝撃は、その頃には言葉で表現することは出来ませんでしたし、何かを作ることで、考える、そんな感じでしたが、作ることをしなくなって以後、いろいろと文書を書くようになったのは、一つには、当時私が何に衝撃を受け、何を作ろうとしていたのか、無意識に近くしていたことを見つめ直す行為であるかもしれないと感じています。

兵庫県立美術館信濃橋画廊コレクション展」
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20131027/art

福岡道雄さんの作品から受けた一つのイメージは、「意識は生き延びる為に瞬間的に世界を切り取り断片化し、それを無意識は緩慢に結合する」そんなものであったかなと思います。
特に黒いポリエステル樹脂で出来た波のオブジェや、初期のピンクバルーンのように、作品自体とそれを支える架台=世界との関係について考え抜いた結果辿り付いたイメージのように感じています。それはある意味で、浮遊するような形態へと、とても孤独な作業であったろうと。
今日の展覧会にそのような痕跡が意図されているのか、否か、見つめていました。(それはどちらかと言えば、浮遊する=垂直方向の、verticalな視線の)

それと同時に、アート制作をしていた頃に、アマチュアなりに関心を持ち探求していた、視覚と認知の問題、特に揺れ動くものの認知(観察者中心座標系と環境中心座標系の混乱でもある)に関して、そのまま深堀することもなく、フェイドアウトしていた様々な問題点について、ハンディキャップのある娘の誕生とともに、アールブリュットの世界を知ったことをきっかけに、アートセラピー的な方法論を求めてそれら問題群を改めて考え始めていた時期でもあり、その手懸りのようなものを、展示コンセプトや作品群のなかに感じることができました。(それはどちらかと言えば、眼球が並行に2個在るが故の水平の、horizonな視線の)

展覧会の20〜30代の若いアーティストさん達は知らない方ばかりでした。
ホワイトキューブな展示室に6名(タブロー1名、写真製版によるシルクスクリーン1名、写真1名、映像2名、ドローイング1名)
奥の和室に立体1名。

印象として、the three konohanaの山中俊広さんが、過去ギャラリー開設前にキュレーターとして開催して来られた展覧会を拝見した時に感じた、「弱い表現」と括れるような作品群がホワイトキューブ側の広い展示室に置かれ、奥の和室の展示室に「強度のある表現」と括れるような作品が置かれて混成系とされていると感じました。

山中俊広さんが、過去ギャラリー開設前にキュレーターとして開催して来られた展覧会の感想。

「リアリティとの戯れ ‐Figurative Paintings‐」展
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20120325/art

「ボーダーレスのゆくえ」
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20130321/art

個々のアーティストさんの作品に感じたこと。
ホワイトキューブ側の出窓と、奥の和室に置かれた作品とは、作品を支えるフレームから自由となっていて、その両端の作品に挟まれるように、ホワイトキューブの作品群(額縁やモニターによって支えられた)が配置されていた。

折原ナナナさんのドローイング作品。
折れ線や皺をなぞるようなドローイングが吊るされている。
窓台にキャンバスの枠から外されたキャンバス地が巻かれている。一枚だけ印象的な、ご出身地なのか訛りのある語りの手紙のような紙片。
それらを見ながら思い出したイメージ(私の心の師である福岡道雄さんの作品に「何もすることがない」という文字を延々と綴った平面作品がありますが、離れて見ると、文字が織物の柄のように埋没していき、近付いてみてそれが文字であると分るような、その分岐していくような、水平の視線のギアチェンジのようなもの)

揺れ動く動的な表現の作品内容によって、額縁やモニターや作品を支える台座や周囲の環境が不変項のように感じられる作品群

荒木悠さんの動画作品。
浮遊する視線、揺れ動くものの認知(観察者中心座標系と環境中心座標系の混乱でもある)
トラウマ治療法に最も効果があるとされるEMDR的な眼球運動を伴う心理セラピーの、アートにおける可能性について連想した。

EMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing;眼球運動による脱感作および再処理法)
http://ja.wikipedia.org/wiki/EMDR

小濱史雄さんのネット画像を変形させた映像作品。
ストリートビューの光景に負荷を掛けて、歪ませたりしている。
静止画と動画の境界が曖昧になっていく印象。
匿名性とも言えるこれらのイメージは私たちの日常に溢れているがそれを作品として切り出すメタな視線はとてもユニークである。

末永史尚さんの三角形のキャンバスに描かれたタブロー。
モンドリアンのタブローからその絵画群からモビールの着想を得たカルダーのエピソードを感じさせるような、流動的な配置がなされている。(タブロー自体は、モンドリアンというよりも、彼らの仲間たちのグループの新造形主義のテオ・ファン・ドースブルフの斜行するキャンバスのよう)
その構成が作家自身によるものなのか、キュレーターによるものなのか、もしくは会場に来訪した観客によって可変化されても構わないかのような、ラフな組み立て。
額縁的な支えるフレームは無いけれど、キャンバスを置く為の白い台座含めて、キャンバスを支えている筈の背景の壁や床、ギャラリーの空間自体が、キャンバスの自由な流動性によって、不変項的な印象を感じる。

佐伯慎亮さんのスチール写真作品(額縁のタテヨコタテヨコの配置のリズムが気持ち良い)
様々な生物や人工物やランドスケープ、自然現象がシンクロしている一瞬を捕らえたスチール写真群。
スチール写真は動画の断片なのか、静止画ということ自体がとても特殊な有り様ではないかと感じられてくる。

上田良さんのシルクスクリーンの作品(立体のスチール写真をシルクスクリーンで印刷したもの)
ハンディキャップのある娘の誕生以来考えていたアールブリュットの世界(観察者中心座標系と環境中心座標系の混乱が顕著であり、またそれが作品の魅力でもある)で、アールブリュットの立体作品が立体であるが故のやはりどのようにしてもリアリティを獲得してしまう、立体物の限界もしくは逆説的に製造の容易さ(アールブリュットに限っての私的な考察であるけれど)に対して、それ故に平面作品の限定された圧縮された視覚世界の可能性があるのではと感じているし、あえて立体のスチール写真を平面化する作業の中に、その圧縮のプロセスがメタ化され意識化されているように感じました。

柄澤健介さんの立体オブジェ。
ギャラリー伺う前にTV番組で見た元宝塚の真矢みきさんの地図にまつわるお話を連想しました。

2015年1月6日放送
スタジオパークからこんにちは
(ゲスト 真矢みき)私 実は…地図ガール
TV出た蔵より引用
『半島や岬が好きで実際にそこに行くよりも地図を見るのが好きだというきっかけは19歳の頃の宝塚歌劇団のハワイ公演で初めての海外で飛行機に乗った際窓際から襟裳岬が見えた際、伊能さんすごいと感動したという。地図好きの真矢さんは特技があり47都道府県の県の形が書けるとのこと。まずは秋田県に挑戦、真矢さんは秋田県は人の横顔の形をしていて簡単とのこと、実際の地図と比べてみるとそっくりにかけていた。続いて愛知県に挑戦、書きながら渥美半島が大好きで始まったいっても過言ではないとコメント。真矢さんは愛知県は蟹というよりティラノサウルスに似ているとのこと、実物と比べてみるとほぼそっくりに書けていた。』

柄澤さんの立体を見ながら、ここでも福岡道雄さんの風景彫刻シリーズを連想しました。
今ここの地平のレベルで感覚する風景の断片的イメージが、身体が浮遊し、無限遠の視線を獲得する時に、一瞬にしてゲシュタルトを変えて別の存在に見え始めるような。
ここでは背景の環境が不変項として現れず、浮遊のような視線の流動に伴い変形を始めている。
壁に立てかけられた2本の傾いた棒はその証左であろうか。

展覧会と並行して開催されたイベントも素晴らしい内容でした。こちらもアートにおける完成とは何かという現代アートの本質にせまる問題提起でした。感謝です。

めりカフェ出張編「抹消の痕跡をたどる─ルネサンス美術における上塗りと未完成」
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20150201/art

マチュアなりに関心を持ち探求していた、視覚と認知の問題、特に揺れ動くものの認知(観察者中心座標系と環境中心座標系の混乱でもある)に関して、そのまま深堀することもなく、フェイドアウトしていた様々な問題点

敬愛する17世紀の銅版画家ジャック・カロ(Jacques Callot 1592〜1635)の描いたイメージはアニメーションの原型、萌芽のような表現ではないか?元々、本の形式で出版された銅版画を作品として切り抜き額縁に入れて展示しているが、本来は本をパラパラとめくる行為と不可分な作品ではないか?
またそのような展示は可能か?
それはEMDRのようなセラピー効果を産むだろうか?

20世紀初めの画家モンドリアン(Piet Mondrian 1872〜1944)のアトリエの壁面に並べられた絵画群を観て、カルダーが動く彫刻モビールの発想のヒントを得たとされるエピソードは有名であるが、ではカルダーがそのような刺激を受けた、モンドリアンの作品を単品でなく、絵画群として構成展示されたことはあるのだろうか?

20世紀を代表するアーティストのデュシャン(Marcel Duchamp 1887〜1968)は動画技術の誕生の時代に生まれながら、かつ階段を降りる婦人像等の動画的表現のタブローを描きながら、何故動画作品を制作しなかったのか?

映画監督、小津安二郎(1903〜1963)の映像、登場人物同士の視線とも映画を見る観客視線とも決して混じり合わない、コミュニケーション不全の無限遠を指すかのような水平方向の機械的なカメラアイと、挿入される見上げの空ショット(登場人物の視線と映画を見る観客の視線とがその瞬間結合される)
それらを意識的に構造化して、垂直方向の関係に再構成したかのようなヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders 1945〜)の映画、特に「ベルリン天使の詩」の、垂直方向のverticalな視線は、無限遠という点において等価なのか?
無限遠の視線は映画の中での不変項のようなものなのか?
また、それら映像を映し出すスクリーン自体(平面作品の額縁も同様に)は不変項として観客に作用しているのか?