中平卓馬「キリカエ」展

長居植物園からの帰路、まだ少し早かったので心斎橋で降りて、Sixへ。写真家の中平卓馬「キリカエ」展を観ました。

中平卓馬「キリカエ」展
3月19日(土)より5月29日(日)まで
Six

まったく知らなかった写真家さんだったのですが、ギャラリーに居られた、コムデギャルソンのギャラリー担当の男性が、写真が専門の方らしくとても熱く中平卓馬さんの事について語ってくださったので、作品だけを見ていてよく分からなかったところなど、理解が深まりました。会場の壁面はまだかなり空白があり、そこに作者が大阪に滞在した際に撮影した作品を会期中に追加していくらしいので、しばらくしてまた見に来て欲しいとの事。
作品を見ていて、日常生活のシーンに表れる花鳥風月のようなカテゴリーを感じて(それはたとえば伊藤若冲の動植綵絵のように祈りを込めたような表現がどこか感じられるような)でもそこに月の表現の部分=夜の光景、が無いなと思いつつ、カウンターに置かれていた写真集をめくっていると、一枚だけ暗がりのシマウマの画像があって、そのことをギャラリーの方に聞いてみると、その写真はおそらく夜景ではなく、厩舎内部の光景で暗いだけらしく、そして中平さんは、1977年に病気の為に言語と記憶の部分に障害が残り、現在は昼間はスタッフと屋外で撮影活動して、午後4時に晩御飯食べて、6時には眠るという生活を続けているので、夜の作品は無いらしい。
70年代に高い評価を得た写真家であり、既に過去の人のような、病気後はその生存自体が話題になったりしたこともあり、こうして展覧会で作品を発表することが、存在表明になっている面もあるらしい。
70年代の作風と、現在の作風とは大きく異なる物であるらしい。
個人的な感想として、プロのカメラマンの作品と、自分の娘のことを比較するのは親バカでしかないのだけれど、でも娘のアーチャンと一緒に行動して、時々デジカメを渡して、アーチャン自身が撮影した画像を見た時の、娘なりに興味を持った対象物へ、カメラの焦点を合わせるという感じではなく、ただ、興味のあるその周辺世界を切り取るかのような行為によって、刻まれた光景のように感じていて、今日の中平さんの作品の中に、アーチャンの切り取った写真のような、認知上の座標系の定まらない、不安定に揺れている、でも世界への関心は強烈にあって、もがいているような、共通を感じていました。
人間的認知能力の限界で世界の全体像を捉える事は不可能であり、全てが断片化して認知される訳であるけれども、でも不安ではないような心の有り様であったり、顔/カオス的な明確な表情やシンボル的なものが、果ても無い流動的な世界に溶けていくようなイメージがする。
スタッフさんの解説では、中平さんの撮影方法は、最初カメラは横向きで焦点を合わせて、それから縦向きに90度回転させて、そのままシャッターを切るらしい。人間の目は左右にあるので、縦方向に較べてどうしても横方向にノイズのような情報が入りやすく、それを縦にすることで、自然にカットしてしまう。一旦撮影したものは後でのカットはやらないらしい。
これから増えてくる写真に期待して、会期中に再度伺ってみたい展覧会です。