西光祐輔「I forgot but I can see.I remember but I can't see.」展
午前中の長居公園の自然史博物館での消しゴムアンモナイトのワークショップに家族で参加した後、現地解散して僕だけ北加賀屋のコーポ北加賀屋内のadandaへ(家族には暑い日だしフラれてしまった)
昨年末に、ここの2階で「西光祐輔 × パトリック・ツァイ 写真展」を拝見して印象に残っていたし、長居から近かったので立ち寄ってみました。
オープン直後、展示出来たての状態で拝見。
展示空間はとてもコンパクトなスペースでしたが、そこに大小様々な写真作品がびっしりと配列されています。
額縁のフレーム有り、無しと多様なエッジを与えながら、水平垂直への強いこだわりを感じさせるような、作品の配列がとてもリズミカルで眼を動かせる。弱い表現の作品群が強い結びつきを持って、作品同士と展示空間にフィットしていました。むしろ、ホワイトキューブな画廊空間に写真作品が置かれているという感じよりも、写真作品によって、空間が構成されて成立しているような印象があります。
僕が20代の頃、ずっと手掛けていた銅版画は、プリントの際に図は反転するので、描いている像は思い通りのものには完全にコントロールすることは難しく、でもその部分が多分好きで継続してやっていたような気がする。(それと同時に、同じような暑い時期に、今は無き信濃橋画廊のサマーフェスティバルで展示した時の、ガランとした空間も思い出された)
写真の場合はどうなんだろう。会場に居られた西光さんとも少しそんな話をしましたが、写真の場合は基本的にネガからの正投影ですが、一番の特色はやはり、大きさが拡大縮小自由であり、ネガのサイズを大きく超えても、あくまでアウトプットされたものがオリジナルという事と感じる。
少し前にsixさんで拝見した中平卓馬「キリカエ」展では、同じネガからプリントされた、大きさの異なる写真作品が、向かい合う壁面に展示されていて、ややオートマチックな印象で、その意図を強く感じさせられましたが、西光さんの作品では、大きさの自由さは、作者の感じた対象へのインパクトと比例して、感情の赴くまま決められているような、そんな雰囲気がありました。
この大きさの感覚は、これを写真集という形で観る事は出来ないし、リアルな展示会場でのみ感じられる感覚と思います。ぜひ観られる事をお薦めします。
西光祐輔「I forgot but I can see.I remember but I can't see.」展
http://www.adanda.jp/event/110813/
adanda