Konohana’s Eye #14笠間弥路 「ライオンの家」

このはなのFIGYAやASYL(元梅香堂)で個展&ワークショップされて、我家もワークショップに参加させていただいた笠間さんの個展を拝見しました。(12月にも妻子と再訪)

Konohana’s Eye #14
笠間 弥路 「ライオンの家」
http://thethree.net/exhibitions/3999
the three konohanaのwebより引用

笠間さんの作品は、FIGYAとASYL、それと神戸のギャラリー301で拝見していましたが、the three konohanaの山中さんから、それ以前に観てますよと指摘され、山中さんがコーディネーターされた「飛鳥 アートヴィレッジ 2013」展の5名のアーティストのなかに居られたこと思い出しました。
作品の外観などが大きく異なっていて、同一の人の作品と気付かなかったのかもしれません。
でも、過去の自分自身のレビューを再読してみて、でもやはり笠間さんの問題意識は連続していて、繋がっている事を感じました。
私はそこに下記のように記録していました。

笠間弥路さんのガラスの展示ケースの中に、相似形のようなガラスBOXに、明日香村の光景の写真=2次元とその切り取り加工=2.5次元及び、採集した石=3次元を納めていて、2次元〜3次元へ移っていく。(そして展示内容よりも、その閉じ込め感というのか、ガラス展示ケースの中にさらにガラスBOXの配列という、息苦しいような遮断や梱包への執着も感じる)

「飛鳥 アートヴィレッジ 2013」
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20140321/art

「飛鳥 アートヴィレッジ 2013」の5名のアーティストの作品群相互に空間次数の循環詩のようなものを感じて記録しましたが、読み返すと、笠間さんの作品の2.5次元的な表現の、その2次元と3次元の中間体のような表現に意味があるように思います。

the three konohanaでの今回の個展のテーマは、ご自身のアトリエ作りの為の空間修復作業の中で生じてきた様々なオブジェのようなもののようですが、それらは建築物(3次元)の断片で空間を構成する生活アイテムでもある。
人間の空間認知能力の限界によって、建築空間全体を同時に認知することは不可能で常に空間は認知上の断片(2.5次元)化されていくが、では物体としての断片をどこまで小さくしていくと、建築空間としての認知がされなくなり、断片となっていくのか、ここではそのような試みがなされているのだろうか。
それは言語が大きさに非依存的でどこまで大きくても小さくても言語であり続けるが、ではそれを断片化するとどこまでが言語の性質を持ち続けて認知でき、どこからが言語でなくなるのか、ということへの興味と近いのかもしれない。
建築設計の仕事をする際に私が意識しているのは、建築はランドスケープと人間との中間体というイメージですね。そこでは物質だけではなく、生命体ではもちろんないが、より人間に近い存在と感じる。それを感じさせるのが、3次元と2次元の中間にある、断片化して無限に続いていくような2.5次元(もしくは2.n次元)の世界ではないだろうか。

立体でもなく平面でもない存在。

ASYL(元梅香堂)での個展の際に私はランドスケープとの流動的な展示イメージに下記のように記録していました。

この元梅香堂=ASYL自体がもともとギャラリーと環境との境目が曖昧な今にも崩れてしまうような不安定な印象の空間であるし、窓越しに、また河川敷から堤防越しにと連なるランドスケープ自体も既に作品の一部であるかのようなイメージを感じる場所ですし、miro kasamaさんの半透明のような弱い表現の作品群がそこに漂うような状態。
そこへワークショップ参加者が窓ガラスに絵を描いていき、さらに透けたイメージが重なっていく。

Swimming
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20150927/art

連続して個展を拝見してきて、感じるのは、「飛鳥 アートヴィレッジ 2013」展の時のガラスBOXによって閉じた表現から、作品が境界線を徐々に無くしていき、観る人に近い存在となっていること。
でもそこにあったガラスのような透明なバリアーは完全に消滅した訳ではなくて、デュシャンの残されたメモに記載されたようなアンフラマンスな極薄膜のようなものとして、残存していると感じる。
大ガラス以降、絵画を放棄したとされるデュシャンにとっては、偶然性による構成失行をイメージしたであろう大ガラスが、結果的に下部構造(男性的原理の世界)の決定論的な世界と、上部構造(女性的原理の世界)の非決定論的な世界とに分離されて、それが人間にとって逃れ難い重力の支配の表現となってしまっていることへの、表現の限界への気付きが絵画の放棄へと向かわせたのではないかと個人的には想像しますが、笠間さんの場合、重力の支配とそれによらざるを得ない表現は、否定的なものではなく、安定構造へと向かう無意識のちからとの認識があると感じます。
偶然性は構成失行へ向かうベクトルと、構成へと向かうベクトルと、同時に産み出すのではないだろうか。ここでは、それら生成物が並列に置かれている。
(一緒に観た妻は、女性として、母として、クリエイターとして、作品世界に強く共感したようです)
素晴らしい展示、感謝。