加藤 巧「Re-touch」

加藤 巧「Re-touch」

http://thethree.net/exhibitions/5581
the three konohanaのwebより引用

6月27日、午後、家族と伺いました。加藤さん在廊されていて、詳しくお話も出来て作品の理解が深まりました。
過去、the three konohanaで、加藤さんの作品は3回拝見していて、その度に様々な新たな気付きを感じさせてくれる刺激的なアートと思います。
最初に拝見した2016年の「Array」展のレビューに

https://prader-willi.hatenablog.com/entry/20160803/art
『小さな画面の卵テンペラの絵画は、自身のドローイングの二次創作であり、具象性や他者性が無く、大きさに対して非依存的であり、大きさの無い世界とも感じる。それは視覚と同時に皮膚感覚に近接する。それら点のような作品群を、具体の場所に等間隔に並べるルールで配列するとき、その配列の中に大きさの世界と不変項を感じる』

と最後に皮膚感覚への近接のイメージを記録していました。
次に拝見した、2017年の「transfer guide」 加藤巧×前谷康太郎展のレビューには、

https://prader-willi.hatenablog.com/entry/20171112/art
『加藤さんの作品に感じた「意識は瞬間的に世界を分離し断片化し、無意識はそれを緩慢に接続する」と同様のイメージを前谷さんの作品にも感じます。偶然性に対する受容が前谷さんの場合、加藤さんの作品に較べ、より不可避的というのか、それが作品の基本的な骨格を形作っているように感じる』

最初に拝見した「Array」展で感じた、皮膚感覚への近接のイメージと、「transfer guide」展で前谷さんの作品により強く感じた偶然性の受容の問題とが、今回の「Re-touch」展において、より明確に意識され強度を持って表現されていると感じます。
皮膚感覚という「ヒューマン」に属し、かつ観察者中心座標系に関わるものと、偶然性という「ノンヒューマン」な、環境に関るものとが、「意識は瞬間的に世界を分離し断片化し、無意識はそれを緩慢に接続する」ような方法で、作品化されている。
今回の作品のうち、断片化したピースを亀裂をより明示するように中央で縦に継がれた作品を見ていて、私はデュシャンの大ガラスのことを連想しました。
従来の網膜的絵画の限界を超えようと試みたデュシャンの大ガラスは、性的イメージで区分された2段のうちの下半分は、独身者(男性)の世界=透視図法で3次元の世界の2次元世界への投影として描かれている。透視図法という、ものの配置が一義的に無限遠まで確定可能な、ある意味で決定論的な世界と、上半分の花嫁(女性)の世界=雲のような不確定な形態すなわち非決定論的世界が、4次元世界の不可知な想像上の存在として、その断片としての3次元への連続体がさらに2次元へと投影されている、とても複雑な構成になっている。しかし、上下の世界は金属の枠によって分離されていて、交わることがない。
デュシャンは大ガラスの完成後に絵画を放棄したとされるそうですが、それはおそらく、網膜的絵画=ヒューマンに属する絵画の限界を超える試みの具現化であったはずのものが、冷静に見れば、人間を支配する重力という環境の不変項による上下感覚の提示に過ぎないと自身で気付いたからではないかと思っています。
そして、完成後の運搬中の事故によりガラスが割れて亀裂が生じたことを、デュシャンはむしろ喜び、作品の完成とした逸話が興味深い。偶然性の受容がそこでより意識され、かつその後、性的な触覚的なモチーフのオブジェを作り始めたことも、様々な示唆を感じる。
加藤さんの作品では、断片化されたピース自体が指で形成された下地材であり、お聞きしたところ、制作中に壊れたものではなく、意図的に壊したピースであるという。それを亀裂をより明示するような継ぎ方をされている。
以前、西成区のアートスペースであるココルームの釜ヶ崎芸術大学で横道仁志氏(中世美術研究者)の講義で、中世の宗教画では神の姿は直接的には描かれず、シンボリックな中央の柱等で表現されると教えて頂いた事を思い出します。
加藤さんの亀裂の明示化された作品の、その亀裂はそのような、描けない不可知なものを示すのか、そこは分からないですが、これらが拡大していき、人間を包むような、洞窟的なフォルムを持つ時、必然的に生じてくる継ぎ目の問題として、現れてくるように感じました。

その洞窟的な空間において、今ここ的感覚をもたらし、不安では無い、心に安定を与えるものは、視覚よりも接触系の皮膚感覚であるだろう。