乃村拓郎「On」展

昨年拝見したグループ展、Director’s Eye #2 野口 卓海  「まよわないために -not to stray-」の時に出展されていた作家さんの個展。

乃村拓郎「On」展
http://thethree.net/voice/3150
the three konohanaのwebより引用

11月に観て、今日は2度目で、家族と伺いました。
奥の和室の展示物は前回座敷に上がらなかったので、作品に直接触れる機会がなかったのですが、今日は触れることが出来て、メインの展示室との関係性が良く分りました。
今日も山中さんから詳しく作品解説して頂いたので、理解が深まりました。

メインの展示室は写真と彫刻の展示で、視覚認知による平面と立体の関係性についての考察の空間の様相。それに対して奥の和室の展示は、メインの展示構成によって、視覚認知のみによる緊張状態が与えられた後、やわらかな形態のオブジェを直接手に取って、手の皮膚感覚で感じる事ができるので、一瞬の緊張の緩和が生じるが、それと同時に、視覚認知を支える台座のようなものが揺らぎ不安定化する仕掛が設えてあり、静的なメインの展示と動的な和室の展示とで対照的な構成となっていました。

最近、私が興味を持っている、皮膚感覚=観察者中心座標系=大きさの必要無い世界=言語に近い世界と、視覚の世界=環境中心座標系との関係について探求されているのではと感じる、試作的な印象の強い作品群でした。しかもとても射程の深い試みと感じます。

昨年のグループ展の時の全体の印象として、私は下記の感想を書いていました。

二つの構造のようなもの。
ひとつは、「リニアーな直線的な形態は、生成伸張の限界点において揺らぎはじめ不安定構造となる」
もうひとつは、「包絡された形態は、安定的な構造となる」
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20140307/art

乃村さんの作品に対しては

奥の和室にある、工芸の乃村拓郎さんの作品では、日常使いの道具のような柔らかな包絡された形態が、生成伸張の限界点を求めるかのように、微妙に変形を加えられ、ふたつの構造は混成系となっている。

今回のメインの会場にある、樹木の切断面はちょうど、生成伸張の限界点=分岐点そのものを切り出したかのような瞬間を「置物」として見出している。形態の生成伸張の限界点=分岐点を表現することは、実際にはそれを表現とすると、ダヴィンチが描いた水の流れのカルマン渦の描写のように、説明的なものとなってしまうか、もしくは動画による映像的なものとなってしまい、分岐点そのものをアート作品として、流動的な現象の一瞬の断片として、静的なオブジェとして提示することは実際にはなかなか難しい事であると気付く。
枝分かれする樹木の切断面の提示はそれらの問題点をクリアーしているものとして選択され、未加工で展示されたのかもしれない。
なおかつ、樹木の四周を廻りながら観る事ができるので、視覚的な方向性のバイアスの無い、全体像に近いイメージを得る事ができる。

それに対して、展示室に置かれた自然石とそれを撮影して、サイズアップしてプリントされた写真との組合せは、作者の視点の強いバイアスの掛かった指向性の中に観客を置く。

これらを観た時に、私は以前に国立国際美術館で観た、「杉本博司 歴史の歴史展」を思い出しました。
私はその時の感想を下記のように記していました。

様々な歴史的遺産の絵画や書などを掛け軸にすることは、見慣れたものですが、でもこうして、作家の強い意志の元に置いて表装されると、何故か違和感のようなものを感じてしまうのも、とても不思議に思いました。修復では無く新たな作品として文脈を転換されている事への違和感なのかよく分かりませんが。
仏像なども全て四周から見ることの出来る展示となっていて、本来宗教的空間の中では対峙して、バイアスの掛かった関係の中で見るべきものが、そのような関係性を解体されているところ、例えば最近の阿修羅像の展覧会での展示の有り様にも共通した感覚があると思いますが(興福寺の展示室では、対峙する関係性の展示で、背面は見えません)そこにある眼差しは、大袈裟に言えば、ある意味においてあらゆるカテゴリーの解体に繋がる意識とも取り得る関わり方なのかと感じますね。そのことと、自己の作品と歴史的遺産や様式とのつながりの意識や、自己観の解体とは、どこか違うようにも思います。(中略)杉本さんの海景は、彼がサンプルと呼ぶさまざまな遺物や仏像などが、本来の布置の有り様から切り離されて、自由な見取りを可能にしているのに対して、自身の作品においては、写真の限界でもあるけれど、ある視点が明示されていて、展示空間も湾曲した壁面に展開されているので、こちらはそれに順化するしかないような、バイアスの掛かった、関係性となっている。歴史的遺物や仏像などのバイアスの掛かった関係性を解体していくのであれば、それと同時に自己の作品と鑑賞者の関係も、解き放つものである事が望まれるのでは無いだろうか?。

杉本博司 歴史の歴史展
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20090517/art

乃村拓郎さんのメインの展示室の構成を観ていて、杉本氏の展覧会を思い出したのですが、構成として本来バイアスの掛かった布置関係の仏像等と観客との関係を解体することと、自分の写真作品のテリトリーにあっては、バイアスの掛かった関係性を設定していることの共通性からだと思いますが、でもどこか違うとも感じました。

その違いは何故感じるのか、山中さんから写真の作り方について解説をお聞きして、理解の手懸りを得たように思います。
会場に置かれた自然石と一対一の関係で撮影されてサイズアップされた写真は、一瞬ごく普通の写真に見えてきますが、一焦点のレンズから得られるクオリティとは異なり、絵画の特権のように全ての部分にクリアーに焦点が当っています。
(山中さんから、「アンドレアス・グルスキー展」(2014年2月の国立国際美術館)の写真の作り方もほぼ同じ方法らしく、分割してすべての部分に焦点を当て、再構成する方法との事)
乃村さんの自然石とその写真、そして樹木の断片の周囲を巡る構成は、視覚認知のバイアスの設定の有無に関わらず、世界の全体像の獲得の困難さへの誠実な態度とも感じるし、困難であっても、様々に試行することに意味はあると述べているようにも感じました。

2回拝見して、奥の和室のオブジェに触れる体験を通して、さらに試行されている部分を感じました。
日常使いの器のような様相のオブジェを台座のような長い板から手に取ると、安定していると思い(思い込んでいる)台座が揺れて、何個か置かれているオブジェが転がって落ちて破損するのではと、一瞬の緊張が襲います(実際には陶器のように見えるオブジェはフェイクで転がり落ちるほどの揺れも生じない設えとなっている)
手でオブジェを持ち上げるという、皮膚感覚と、視覚認知との一致による安心感が、不意に台座が揺れる事で、視覚認知を支える座標系が揺らぎ不安定化していくような。
(それはrebher hand illusionと呼ばれる触覚のような体性感覚と視覚の一致が、隠蔽された自身の手ではなく、目の前に置かれたゴム製の手に感覚を感じてしまう幻覚と、どこか似ている印象。不安定な環境対象としての道具と身体が同一化していくような)

皮膚感覚が大きさを必要としない世界であり、視覚の世界は大きさを必要とすると分離して考えていたけれど、ここでは視覚と皮膚感覚が境界線が重なるようなものとして見えてくる。
とても刺激的な作品群、感謝です。