『セヴェラルネス 事物連鎖と人間』中谷礼仁著を読む

手許に置いて繰り返し読む事になりそうな、奥行きの深い著作ですね。

セヴェラルネス 事物連鎖と人間

セヴェラルネス 事物連鎖と人間

世界は連鎖する<かたち>なのだ。その可能性は一つでもなく、無限でもなく、セヴェラルネスseveralness<いくつか>である。という序から始まる各章のそれぞれが、興味深いテーマで、刺激的な内容ですが、特に第4章「ピラネージ 都市の人間」において、無意識の世界(フロイトのマジックメモの比喩)と銅版画制作のプロセスの類似性と、それが実際の都市の生成に繋がるというくだりは、銅版画制作が好きで、僕自身も漠然と、そう感じていたところもあり、誰か専門家によって記述してもらえないものかと、期待していたから、共感するところ多いですね。銅版画の不可逆的な制作プロセスは、僕にとって、ものを作るときの基本的なイメージであり、姿勢と思っている。
(以前、哲学者の東浩紀氏の著作「存在論的 郵便的」を読んだとき、難解な内容だったけれど、最後のところで、フロイトのマジックメモについての記述があり、東氏の考えが感覚的に、ようやく理解出来、その時、これはむしろ、銅版画の制作プロセスで比喩されるべき内容だ、と感じていた)
また、第6章「ダイコクノシバのアレゴリー 出来事とその徴」での、クリストファー・アレグザンダーの『形の合成に関するノート』についての記述も、新しい知見を感じる。
一部引用

『ノート』の方法論は計画の要求に潜む無意識を意識的に取り扱うのみならず、逆にその意識的な条件を無意識化、封印=事物化するプロセスを明らかにしたものであった。その結果が、固有の事物となるのである。いったん事物化されてしまえば、人はその自明性ゆえに、そのものについての細かい意識を捨て去るからである。つまりツリーならびにサブセットはこの「忘却」のプロセスを展開する為に発案されたのではなかったか。事物の固有性は、アルド、ロッシの主張した出来事の発生に伴うよりも、むしろこの忘却によって発生しているのだ。

この考えは、モンドリアンの唱えた「事物の真のヴィジョンを獲得する為には、行為と造形的現象を共に明確にすること」という20世紀のモダニズムの結晶のような理念を根本的に転換させる、メタな視点と感じる。