『光ある場合-ノスタルジーを巡る問いの在処-』

2021年10月30日(土曜)
午後、近鉄桜井駅に出て、
はならーと 『光ある場合-ノスタルジーを巡る問いの在処-』の展示を観てきました。

光ある場合-ノスタルジーを巡る問いの在処-
https://sites.google.com/view/kaiju-mirai/exhibitionsevents#h.2577of2dfbyn

ディレクターが我家の近所の山本製菓の池田昇太郎さんだったし、参加されている岡本奈香子さんのステイトメント読んで、自分の若かった頃の良く似た体験にシンパシー感じて、伺いました。

作品のほとんどが、facebookに公開されていて、ある程度、理解した上で伺いましたが、ポイントになっている廃屋の屋根を貫通する桐の大木であったり、池田さんの映像作品であったり、なかなかのインパクトがありました。残念ながら池田さん今日は不在で作品についてお聞きできませんでしたが、また直接聞いてみたいですね。

元診療所でパンフ頂き展示の概要の説明を受けました。それから少し西へ歩き、元お寿司屋さんで展示を観ました。

ヤーナ・マイヤラ ヴィッレ・リンナ
ヤーナ・マイヤラさんとヴィッレ・リンナさんの作品は、以前、山本製菓での展覧会と彼らの住吉大社での樹木の音採取のワークショップに参加して概ね知っていました。今回はヤーナ・マイヤラさんのドローイングと、環境音楽の2人のコラボ作品とが展示されていました。テーマにされているのは、会場の朽ちて廃屋になっている元寿司屋の中庭に生えていた桐の木と思っていましたが、実際にはまず屋根が朽ちて落ち、そこに鳥が桐の木の種を運んできたらしく、桐の木がさらに屋根を貫通し破壊した驚くべき光景でした。おそらく作者もこの光景を見て同様に驚き、インスピレーションを得たことでしょう。

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ドローイングはカオスのようであり、そこから船型のようなイメージが浮遊する複数のドローイングの集積作品へと変化している。私のライフテーマである「顔/カオス」のように、境界線なくイメージが分岐していくようである。
それは廃屋に桐の木の種が落ちて芽吹き、屋根を貫通して大樹となっている光景と繋がるようである。廃屋はカオスであるが生命を産む無意識の領域と置換えて理解も可能に感じる。

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林圭介
林圭介さんは、まったく知らないアーティストでした。でも展覧会公式のFaceBookの作品画像を見て、ベラスケスのマルガリータ王女の肖像画を連想し、そこから様々な空想が拡がりました。

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林さんの作品は、これが絵画でなければ正視できないようなエキセントリックな表現ですが、おそらくコーディネーターの池田さんは、この会場とテーマに応じた、人間の無意識レベルを日常の中から剥がし視覚化するところに共通点を見出し選ばれたのではないかと推測しました。
ベラスケスの描いたマルガリータ王女の肖像画のうち、特に有名な背後にベラスケス本人が描いている姿が映り、王様は曖昧な描写に済ませてしまった鏡像の作品は、それ以外に、あまり言及されることも無いのですが、王女の周囲の付き人の多くが障がい者であり、特に一説によれば右端の犬は、元は足に障がいのある人が描かれていて、それを男が蹴っている(王のリクエストとか)構図であったが、さすがにベラスケスが耐えられず、犬に変えたとされています(児童向けの外国の小説なので創作かもですが)

ラスメニーナス wikipediaより引用
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=1922495

当時のスペイン宮廷絵画に興味を持つきっかけになったのは、ベラスケスの次の世代の宮廷画家のファン・カレーニョ・デ・ミランダさんが、1680年に描いた少女の肖像画のモデルが、現代では私の娘の難病のprader-willi症候群ではないかとされていて、調べていくと、当時の貴族達は今の福祉の考え方とはまったく違いますが、障がい者を囲う事がステイタスになっていたらしく、ベラスケスも多くの障がい者肖像画を描いています。

Eugenia Martinez Vallejo: la “Monstrua” di Spagna
https://www.vanillamagazine.it/eugenia-martinez-vallejo-la-monstrua-di-spagna/?fbclid=IwAR3DA7lCB8KYJgBHDEJyLC5ck0r-kvK9Hg1EsUJxsWlRGeuWLAYCXkJk9rs

そして、ベラスケスもファンカレーニョも、私が見るに、現実をデフォルメすることなく、健常者と同様に丁寧に描いている事に、感動もしていました。
少し前にベラスケスの実物を見る機会があり、それは王が狩猟する姿を描いた肖像画でしたが、左足の部分が描き直しがされていて、その痕跡がうっすらとではありますが、視認できる状態のまま展示されていました。

プラド美術館より引用
「狩猟服姿のフェリペ4世」参照ください
https://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1806/detail.html

文献等では、後の経年変化により表れてきた跡のようですが、はたしてベラスケスほどの画家が、そのようなミスを犯すのだろうかと空想してしまいました。むしろベラスケスは、マルガリータ王女の肖像画に、鏡像の自画像を堂々と中央に描いたように、現代人と近い感性で、足の描画の元の表現をあえて痕跡を残し、アンダーペインティングを無意識の領域の様に感じさせ、ライブペインティングの上層と境目なく描こうとしたのではあるまいか、もしくは後世がそのような感性の萌芽と感じ取り、補修等を施さなかったのではと空想しました。

林さんの、皮膚を剥がす、エキセントリックな表現はダイレクトにそのような感性を表現していると感じますが、日常的な表現の中にも、うごめいているが、隠れている、視認化されていないものが、膨大にあることの示唆が、この展覧会のテーマと重なり感じられてきました。

あと、エキセントリックな内容の絵画の傍に抽象的な表現の絵画が置かれていて、何だろうと見つめましたが、ヤーナ・マイヤラさんのところでも書いたように「顔/カオス」の世界は境界線なくイメージが分岐していくだろうし、「顔/カオス」の世界を部分的に切断し断片化しても、「顔/カオス」は不変であり続けるであろうことの証左のように感じました。
私のもう一つのライフテーマ「意識は瞬間的に世界を分離、断片化し、無意識はそれを緩慢に結合する」との親和性を感じます。


池田昇太郎
池田昇太郎さんはディレクターと同時に自身の作品も展示されていました。
壁に貼られた詩とぶち抜かれた床(でもそれはとても丁寧な印象の)と、そこに投影される床を破壊する映像。衝動的に破壊する映像は、それが投影されている床であることにすぐに気付くのですが、しかし、跡処理がとても丁寧にされていて、何で衝動的な破壊のままでは無いのか、疑問にも感じましたが、おそらくこの廃屋だけでなく、池田さん自身のギャラリーの山本製菓の朽ちた鉄骨や傷んだあちこちの箇所もそのまま大事に扱う、彼のそのような事物への思いがあるからだろうなと感じますし、「衝動/理性的な処理の痕跡、詩の言語表現」は、この場所の他の作家にも共通したテイストなのではないかと思います。同時に、その分かり易過ぎるとも感じる表現に、むしろ池田さんは大きな可能性を感じてきているのではないかとも気付きました。

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岡本奈香子
岡本奈香子さんも知らないアーティストさんでしたが、展覧会やwebのステイトメント等を読んで、私自身のアート制作をしていた頃の、若かった頃の記憶が蘇り、私と同様では無いだろうけれど、作り続けていく上で、様々な困難や悩みを抱えているのではないだろうかと推測して、可能な範囲で私の経験を話すことは無意味では無いだろうと思い伺いました。
展示を見終えて、1階のカウンターのところに戻ってきたら、スタッフさんが全部観られましたかと声がけしてくださり、挨拶すると、その方が岡本さんでした。この地域の、かいじゅう計画のまとめ役でもあるらしい。
岡本さんの20代の特異な体験だけでなく、障がい者アートへの関心、サポートのあり方であったり、共感共有することがたくさんありました。(当時の私のアート制作や私なりの特異体験がなければ、おそらく難病で知的ハンディのある我が子の言動や我が子が描き出すアートの理解は、とても困難であっただろうと、これは確実に言えます)
現在されている脳への直接的な刺激による描画の実践や、今回別会場において、田中誠人さんと協働しての暗箱での感覚遮断の実験などが、それはアートなのかシステムの説明なのか、という悩み惑いなども、率直に述べておられ、その解けるか解けないか答えは容易に見いだせない課題については、私も適切なアドバイスはもちろん難しいですし、ですが、出来る範囲で私も過去の実践を思い出しつつ考えてみたいと思いました。

私が20代の頃、サラリーマンしながらアート制作をしていて考えていた事は、その当時は没頭していて、言語化できていませんでしたし、近年ずっと様々な人のアートを見て、レビューを書き続けているのは、当時、自分は何をしようとしていたのか、何を考えていたのか、を言語化する為の、補助線を引く作業なのかもしれません。
当時、感じていたのは自分の限界=意識的世界や行為の限界=人間の限界、を超えるにはどうすれば可能なのか、という事であったと思います。そこから偶然性へ、無意識的世界や行為へと関心が移りました。当時、偶然性をテーマとしたアートとしての「具体美術」の志向や方法を批判的に受容し、得られたものとして、これもライフテーマになりましたが、「非決定論的な人間存在をメタ認知する装置としての無意識的な機械的決定論的方法」 と規定していたと思います。批判的にというのは、おそらくこのような方法論は、とても魅力的で生産性が高く、無限に作品を作り出せるであろうことが言えるし、しかしそれはドラッグのように中毒性のとても高いものであり、一度捉われると離れる事はとても困難なものと思っていますし、故に批判的でした。

では如何なる方法があるのか? それは個々の作品は支えるものが無くても良いし、無意味なものであったとして、作品から作品へと転移していくベクトルにはリアリティがある、そのベクトルに意味を見出す、概略はそんな事であったと思います。
当時の私がしていたのは、銅板画でした。

信濃橋画廊コレクション展
prader-willi.hatenablog.com


最初に偶然生じる現象を使う(銅板を塩化第二鉄の溶液に漬け、裏面から泡を吹き泡の定着面が腐食されず残る)⇒刷った版画を気を失うまで寝床で見つめつつ半醒半睡状態でドローイングし加筆⇒別版に転写し異なる手法で描画⇒ 刷った版画を気を失うまで寝床で見つめつつ半醒半睡状態でドローイングし加筆
これを複数回繰り返し、製版完了し刷り完成⇒2点目で同様の繰り返し、という流れ。かつ、1点目と2点目、3点目と進めていく過程に、視覚認知のバイアスを用い(それは例えばサッカーの対角線審判法において、生じてくる動的な体験と似たような、眼球運動やEMDR的なセラピーに近接していくような)作品との親密性を生じさせる。

様々なシステムの刺激により生じる感覚の変容によって、人間の本来の姿を呼び覚まし、産み出すとしても、結果生じてくる作品が親密なものであり、かつセラピー的なものであることが望ましいのではないだろうか、と対話のあと、考えていて、私の過去も思い出しつつ、そう思いました。

同時に、(たまたま、最近あった京都大学の論文捏造事件に関して、我が子は10年以上前に、京都大学こころの未来研究センターの正高信男先生の療育研究に参加していた事があり、その時に受けた療育のおかげで現在があると感じているのですが、その正高先生が、退官直前の時期に発表された、精神疾患のある子に対する医療用大麻の治験が捏造と判定され、大学を追放されたのですが、しかし、それが医療用大麻の治験であること、最初の告発者が正高先生の息子さんであり、かつ医療用大麻の専門家であった事からして、外部からは計り知れませんが、脳の変異に対しての、そのような治験が障がいに苦しむ子供達の救済に役立つと確信された先生の思いは事実なのだろうと思います)
今回の展示における岡本さんの脳科学的なアプローチも、おそらくそのような救済が大きなテーマとして背景にあるのではと感じました。