堂島リバービエンナーレ2011「ECOSOPHIA-アートと建築」

国立国際美術館を出て、それから少し歩いて堂島リバーフォーラムへ。堂島リバービエンナーレ2011「ECOSOPHIA-アートと建築」を観てきました。SIXの企画されている飯田高誉さんがアーティスティック・ディレクターとの事。
コンセプトとして「ECOSOPHIAにはエコの哲学を実践する惑星、という意味がこめられており、地圏、水圏、気圏という領域で未来に向けての地球のヴィジョン、新たな自然観、世界像を指し示す空間を会場全体で見せていきます」とあり、とても興味深い内容。

堂島リバービエンナーレ2011「ECOSOPHIA-アートと建築」
http://www.dojimariver.com/topics/biennale2011.html
堂島リバーフォーラムより引用

地圏、水圏、気圏とくると、どうしても四大元素説プラトンの立体を連想してしまうが、ここではあと一つの「火」の領域についての構成が無く、それは火=エネルギーから、原発事故を受けての意図的なものなのか、人の棲む領域に限定しての事なのか、分りませんでした。
それぞれの領域をテーマに建築家とアーティストがコラボされていますが、あえて建築家とアーティストという職能的な区分がここで何故必要なのかと展示観ながら疑問に感じるところもありました。それらのコンセプト展示と切り離されて、メイン展示のように中央に、アニッシュ・カプーアさんの楽しい雰囲気の建築マケット(模型)が多数展示されていましたが、知らないアーティストさんだったし、帰宅後、ネットで過去の作品拝見して、とても興味深いイメージだし、作品を観たくなりました。と言うより、展示して欲しかったですね。会場でも、もう少し作品紹介を映像等使って、作者のイメージが実際にどんな形で具現化されているのか、詳しく伝えても良かったのではと思う。
スタイリッシュなアートの展示も素晴らしいが、視覚的な展示が中心であり、観客との感覚的なコミュニケーションが行なえるような、展示や設えがある方が、コンセプトにかなうのではないかと感じた。
アニッシュ・カプーアさんの作品拝見していて、その楽器のような、性器のようなユーモラスなシンボリックな表現に、昨年、京都国立近代美術館等で拝見した松井紫朗さんの作品世界を連想した。これらの、巨大な人体のスケールを超えたオブジェで、それらが人体や性器のようなユニークなシンボリックなイメージを持つ事は、おそらくアーティスト達の共通の感覚があり、そうではないような、シンボリックな意味を剥ぎ取られたオブジェは社会化が困難な故か、前景化してこないような印象がありますね。むしろ、それらが前景化してこないことの意味を問う事こそが、アートの、ちからであると思う。

ANISH KAPOOR
http://www.anishkapoor.com/

地圏のグループ
アーティスティック・ディレクターの飯田高誉さんは、観客参加型の展示は好まれないのか、僕が敬愛する建築家の磯崎新さんの「孵化過程(再演)」は、パンフレットでは、1962年の展示においては、観客が地図上に自由に釘を打っていき、針金を結び付けていく事で、空中回廊が、都市が無限に形成されるものであったらしいが、ここではそのようなエネルギーの放散された残骸のごとく、固定化した静的なオブジェが展示されているのみで、個人的にはとても残念な構成と感じました。
藤村龍至さんのリトルフクシマの都市計画モデルは原発事故で集団移転する村を想定したもの。
ここで東北を字義通り丑寅として、鎮魂の庭として丑寅の森を提案されているが、風水的な因習的な見方にならないか、不安を感じる。
水圏のグループ
杉本博司永山祐子の「NO LINE ON THE HORIZON」は、海のイメージ映像を巨大な湾曲したモニターに映し出し、湾曲したモニターの両端に鏡面を置く事で、映像的に虚像と実像がつながって、ひとつの円筒のように見え、無限遠に波が連続するかのイメージを作っている。しかし、会場は全体の照明が落されていて、周囲の作品の輝きが全て画面に映りこんでいて、とても曖昧な画像となっている。また、水のイメージからは、かなりかけ離れた印象も感じる。
僕自身がスタイリッシュなアートへの興味を失いつつあるし、実験的なコンセプトより、むしろ南港野鳥園のような、人口的な干潟によって、渡り鳥たちが、数千キロの旅の途中でそこで休息をすることで、命を永らえている、そこに深く関る人間がいて、微生物からの連鎖があっての世界の方が、より先鋭化したアートのように感じてしまう。
気圏のグループ
森万里子隈研吾の「ホワイトホール」の洞窟のようなシェルは、ウレタン素材によって、吹き付けて造型されたもの。宇宙生成の原理は人間にとって謎であり、創作動機の原動力であるが、作られた作品のテイストが、軽い、模造のアミューズメントパークのようであると、形式的に信仰の場のような設えであっても、崇高さは感じられない。
時代によって、常にその様相を変えてきた隈研吾さんであるが、少し前に新聞の文化欄において、フンデルトヴァッサーさんの建築を否定的に論じていたので、今回のエコをテーマにした展示におけるこの作品を観ると、観点が変わったのか、どうなのか分りませんが、建築的な構築的なものから後退していかれるのだろうか。