Director’s Eye #2 野口 卓海  「まよわないために -not to stray-」

午後、the three konohanaへ行き「まよわないために -not to stray-」展を観ました(2014年1月12日の記録)
またやはり私には理解が難しい点もありましたので、後日のトークショーにも伺いお話をお聞きして、理解が深まりました。ディレクターされた野口さんがテキストをとても大事にされて書かれている印象があり、好感が持てました。

Director’s Eye #2 野口 卓海  「まよわないために -not to stray-」
http://thethree.net/exhibitions/1153
The three konohanaのHPより引用

選ばれた4名のアーティストが1983〜1986年生まれということから、以前、山中俊広さんが企画された2012年3月の「リアリティとの戯れ Figurative Paintings」展を連想しますし、ベンチマークの世代からの、当事者からの回答のような内容ではないかと想像しながら伺いました。
また、私にとっても、彼らの年齢の頃、もう30年近くも前ですが、バブル景気の頃にサラリーマンしながらピュアアート制作をしていて、仕事含めてやり切った感もあったので、以降フェードアウトしていましたので、当時の自分と重ね合わせて見ている部分もありました。

山中さん企画の「リアリティとの戯れ Figurative Paintings」展の感想に私は下記のように書いています。

私自身は年齢的にはずっと上ですが、独立したのは95年だし、年末退職して2週間後にあの阪神淡路大震災に遭遇し、人生観大いに影響受けましたから、そこから類推するに、その時15歳くらいの彼らにとっては、幸か不幸か分りませんが、あらゆるものが揺らいでいるような、そんな経験がベースになっているのだと思います。それ故か描かれている作品世界に共通して感じる夢分析のような、断片的で不安げなイメージ。彼らにとって、おそらく描かれた作品は自分自身の無意識世界を視覚化するものでもあるだろうし、しかしその深い意味は自分自身でも捉えきれないところがあるような、仮縫いのような状態で表現は留まっている。
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20120325/art

「リアリティとの戯れ Figurative Paintings」展の作品に通底しているように感じた、観察者中心座標系の揺らぎのようなものに対して、今回の「まよわないために -not to stray-」展に感じたのは、そのような内部的な感覚が外部に明確に取り出され、視覚化、構造化されているのではと。2年前に出展されている作家とは人も作風も全て異なりますが、同じ世代の人達としての共通した部分が、仮縫いの状態から一歩進んで、明確化してきているような印象を持ちました。

トークショーでは、皆さん、エリアが明快に分かれているので、グループ展というよりも個展の感覚で参加できたと語っていましたが、でもそこに共通したものが表れ相互に影響し合っているように感じました。

二つの構造のようなもの。

ひとつは、「リニアーな直線的な形態は、生成伸張の限界点において揺らぎはじめ不安定構造となる」
もうひとつは、「包絡された形態は、安定的な構造となる」

ホワイトキューブに展示されている、結束バンドによる立体の國政 聡志さんの作品では、ポール状に天井の高さが許せば無限にリニアーに伸ばしていけるような、しかし物性的にすでに揺らぎ始めているような形態と、包絡された半球のような形態との並置による強い対比。

同じくホワイトキューブに展示されている、タブローの田中 秀介さんの作品では、リニアーな形態は透視画法の焦点を結ぶような街路として、しかし当然のことながら焦点自体はカオスのように捉えきれなくなり曖昧な決定になっていき、手前に展開する、民家や塀によってまとめられた景観は私達を包絡する。ひとつの画面に二つの構造を並置されているが、それらはなめらかに連続もしている(朝の連続ドラマの主人公の住まいは必ずT字路かL字路の近傍にあるように。そうしておかないと、リニアーな街路に接してしまうと、連続する家屋を実際に作る必要が出てしまう為に、ドラマ設定的には、リニアーな街路はとても不都合なのだ。田中さんのタブローでは、そこをあえて、リニアーなしかし無限の先端においては既にカオスな状態のランドスケープに意識的に接続させているように思える)

奥の和室にある、工芸の乃村 拓郎さんの作品では、日常使いの道具のような柔らかな包絡された形態が、生成伸張の限界点を求めるかのように、微妙に変形を加えられ、ふたつの構造は混成系となっている。

最後に和室を出て屋外の小さな階段スペースの窪みに設けられた三木 祐子+金崎 亮太 の、7.5サラウンドの音楽作品は、音空間に包まれることの快楽と、そのエンクロージャーを破るように侵入する階段及び外部廊下のベクトル感が絶妙なサイズとなっている。

4名の作品には共通した構造が感じられるが、その組合わせはそれぞれ独特なあり方をしている。

そんな風に感じながら、メモしていて、その構造のようなものに既視感があることを思い出した。

敬愛する建築家の磯崎新氏が初期の頃、高度成長時代故の機能や収容物、エネルギーの変容を予測した建築形態の要請に対して作り上げた、プロセスプランニング論に基づく建築デザインを、リニアーな成長伸張を一旦停止するために最終的に選んだ、「切断」という方法。その方法の選択によって、磯崎氏はおそらく近代建築の思考の枠の限界を乗り越える事ができたのであろうと思う。
個人的には、カオスになるまでに切断してしまうのが近代的な思考モデルであるとすれば、カオスと並走しつつ包絡していけるのが現代の思考モデルであるかもしれない。

その分り易い実例が大阪の鶴見緑地の花博会場跡に残されている。私の知る限り、大阪にある磯崎建築はここの二つだけであろう。この二つの建築の対比は、機会があればぜひ観ていただきたいもの。

リニアーな形態の生成伸張の切断
国際陳列館(現在の生き生き地球館)
http://www.hetgallery.com/expo90-gallery.html

包絡された形態。テンセグリティ構造
国際展示水の館
http://www.hetgallery.com/expo90-water.html

磯崎氏はデュシャンへのオマージュとしての「三つの停止原基」から着想を得たモンロー定規(マリリンモンローの体型のシルエットをセレクトして定規としたもの)を実際のデザインに応用したりと、デュシャンの生涯を貫く性的イメージを見事に転化させてもいるし、磯崎建築にとっても性的イメージはまた隠喩でもあるだろう。

磯崎氏が切断という手法を獲得した事で『近代建築の思考の枠組みを超えた=迷わない』と同様の試みを、この展覧会の若きアーティスト達は行なおうとしているのか、その点はよくは分らないところですね。しかしとても興味深い試みと思える。刺激的な展覧会、感謝です。