森村 誠 「Argleton -far from Konohana-」

午後、西九条へ出て、the three konohanaさんへ。以前、山中俊広さんがキュレーターされた「ボーダーレスのゆくえ」展で拝見した森村誠さんの個展。

Konohana’s Eye #8 森村 誠 「Argleton -far from Konohana-」
http://thethree.net/exhibitions/2671
the three konohanaさんのwebより引用

「ボーダーレスのゆくえ」展の感想に下記の内容を記録していました。
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20130321/art

誰かが作り出した事物に関り変形を企てつつ、アーティスト固有のバイアスの掛かった視線は存在している筈だけれど、どこか希薄で、蒸発してしまったかのようなそんなイメージが残る。しかしそれは未来に向けて必要な資質と感じる。そう信じたい。

方向音痴な方だし、地図が無いとかなりヤバイ私には特に興味深い展示内容でした。
森村さんもそうなのか、直接訊ねていないので分りませんが、私の認知地図の島宇宙のようなランダムなつながり具合(よく知っている場所AとBには容易に直接行けるが、A→BもしくはB→Aは地図無しでは困難な)を切り出し視覚化されたような錯覚を感じました。
最近興味を持って考えている「立体のリアリティと絵画のちから」の関係やその応用編のようなテレビドラマのセットのユニークさは、現実の都市の構造であったり、私達が不安でなく暮らせる都市の環境作りに逆にリンクしているように感じていますが、今日の地図を材料にした展示にも共通したテイストを感じました。
住宅情報誌の地図を切り抜き、縫い合わせていった巨大な一枚のエンドレスな地図の中に、見慣れた街路を見つけたが、それは心斎橋周辺の格子状の明確な街路の地図でした。

心斎橋周辺は太閤秀吉が大坂の町を形成していく際に作ったブロックらしく、それが現在まで残っているものであり、そのスケールが商業地としてとても快適な周遊性にマッチした大きさであった為、そこを分析した建築家のシーラカンスグループ(大阪城公園のピースセンター設計したグループ)が評価して、新たな都市計画の街路作りに活用された話を思い出しました。
このような御堂筋周辺の格子状の街路に対して、一般的な細街路は、曲がり折れ、いわゆる微地形や元もとの川や農道などに添うように作られ、格子ではない、複雑な街路を形成しています。直交格子のような、ある意味で無限遠に続くような街路も、しかしいずれ限界が来て、細街路と同様に地形等に突き当たり、終わりを迎える。
心斎橋含む御堂筋の場合だと、南は難波、北は梅田近傍で折れ曲がる。

ドラマの主人公の家や舞台はL字やT字の手前にあって、決して無限遠に続く、リニアーな格子状の直線路に面していないことで、空間表現を節約しているかのように、突き当たり折れ曲がる。ドラマの架空のストーリーに沿って、それら舞台空間は有機的につながり始めるが、実際にはスタジオに仮組みされた、包まれた断片でしかない。
丸い刺繍枠は都市のテリトリーの表現なのか、地球の暗示なのかと空想したが、しかしよく例えとして言語化される「仮縫いのような」表現を、実際に仮縫いのまま提示されたアート作品も稀なのかもしれない。
併せて、地図の中の特定の文字を抹消する表現は、「立体のリアリティと絵画のちから」の関係と同時に興味を持っている、「文字と座標系」の問題にも関わってきそうな表現。
ノーベル文学賞があるのに、ノーベルアート賞が無いのは、何故なのかと素朴に思うが、おそらくテキストとして書籍として世界中を可搬できる文字そのものと、物質性と切り離し難いアートとの特質の違いかもしれないと思う(審査員がそれぞれの作品を個別に観に行く必要が生じる)

森村さんの作品で扱われているのは、表現としてのテキストではなく、実用としての文字であり、地図に書き込まれた、具体的な座標を持つ文字である。
イメージが文字&言語によってアンカーされて行く時に、では文字が変容すれば、イメージもアンカーの位置を変容していくのか、という問い。
地図上の文字が修正液で丁寧に抹消されている様は、文字が蒸発したイメージの、そこへの問いであろうか。