「飛鳥 アートヴィレッジ 2013」

奈良、明日香村の万葉文化館へ行き、山中俊広さんがコーディネーターされた「飛鳥 アートヴィレッジ 2013」を観てきました。会場に山中さんと、出展されている野田万里子さんが居られ、詳しく内容をお聞きすることができ、理解が深まりました、感謝です。

アーティスト・イン・レジデンス「飛鳥 アートヴィレッジ 2013」
http://www.asukamura.jp/topics/art_village_2013/index.html

5名の作品に使われた素材とその構成による空間の次数の変化が、作家相互に影響しあって、ひとつの世界を形成しているようにも見えてくる(帰宅後、時間が経って頭の中でイメージを再構成していくなかで、そう感じる)

磐井賢志さんの、籾殻=点=1次元の、膨大な集積によるランドスケープのマケット=2次元〜3次元の中間体。(展示途上に破損したそうで、完成時の写真によるパネル展示=2次元への投影となってしまっているのは、空間次数的には、作品にとって意味あることであったのかもしれない)

立体は小さなマケットのみでした。

下野友嗣さんの、錆びた鉄板=2次元平面による錆びの転写。
これは現地で採集した鉄板なのだろうか。(随分前に見た、東京国際版画ビエンナーレでの河口龍夫氏の大きな錆びた鉄のくさびを紙でくるんで錆びを転写した作品を連想した。)
オートマチックに作品が生成されていく方法は、無尽蔵に新しい方法が開発されていくだろうし、追及していくべきテーマと思います。

この二人の男性の作品が、展覧会のサブタイトルの『土の宙 宙の土』の、土の領域=1〜2次元の世界を構成しているように見えてくる。

残りの3名の作品に素材として共通している、ガラスの有り様も興味深い。そしてこれらが何故か、無意識に空間的に上位にあるように感じてしまう。『土の宙 宙の土』の、宙の領域であろうか。

ガラス素材の使い方。その存在によって強いエンクロージャーから、弱い膜のようなものへと(最近、ずっとデュシャンのこと考えている為だろうか。大ガラスから最終的に彼が辿り着いたとされる、死後発表されたアンフラマンス=超薄膜的、な世界への流れのようにも感じる。性的イメージによって上下二段に区分された大ガラスの、下段が独身者=男子=3次元の2次元平面への投影=透視図法で、上段が花嫁=女子=4次元の2次元平面への投影=不可知な、届かない世界の想像的断面であるように)

笠間弥路さんのガラスの展示ケースの中に、相似形のようなガラスBOXに、明日香村の光景の写真=2次元とその切り取り加工=2.5次元及び、採集した石=3次元を納めていて、2次元〜3次元へ移っていく。(そして展示内容よりも、その閉じ込め感というのか、ガラス展示ケースの中にさらにガラスBOXの配列という、息苦しいような遮断や梱包への執着も感じる)

野田万里子さんの壁面の無数のガラス瓶(および設置の為の棚とその影が1次元の強度のある線を産んでいる)に、ここでも現地で採集された石や植物が閉じ込められている。それらが大きな円形=2次元を描いているが、まるでモンドリアンが具象から抽象絵画へと変貌を遂げていく時期に描いた樹木の絵の過渡期のように、具象物の配列によって強度のある抽象が生じている。(様々な「死」にまつわる人間の振舞についての野田さんとの対話はとても刺激的でした。以前から個人的に感じていた、リアルな死と対極的な、例えばアイスマンだったり、何万年も前の人骨など観るときの、恐怖や不安とは対極の、どこか興味というのか死とは別の観点が生じていること、そのリアルとのバリエーションのあり方。その対話通じて推測するに、野田さんにとっての「死」の表現は、ゼロポイントでは無いことと思われる)
もう1点の作品の、星を表す黒いノート群が宙ではなく、テーブル上に天地逆転して置かれていて、空間次数の循環詩であることを強く示唆している。

山中さんが同じく担当された、一昨年に拝見した奈良hanarartの大和郡山での展覧会にも、野田さん出展されていて、強く印象に残っていました。
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20121103/art

土方大さんの球体のガラス=3次元は既製品の街灯カバーであるらしい。ミラー状の部分に自分の姿が映り込む。
また写真作品にオーバーレイされた模様のようなものが、とても薄いガラス状のものに感じられ、写真と映り込む自分の姿が合成されていく。(観察者の動的な関係が生じ、空間次数がより高次なものへと移りゆく印象)

この展覧会では、地域に滞在し、交流して制作して、その上でホワイトキューブの展示場で成果が展示されるという、ユニークな試みだったらしい。
ホワイトキューブ=アーティストのピュアな実験や告白の場で、地域アートはアーティストと地域の人を含めた地域資源とのコミュニケーションによる協働作業という、私なりの理解がありますが、ここでの会期途上での作品の破損というトラブル=ある意味で実験、が先にメモしたように、作品にとって逆にベクトルを与える作用を産んでいるところ、私はプラスの意味を感じました。