松井紫朗 展 「Forwards Backwards」

アーチャン支援学校お迎えの帰路にアートコートギャラリーさんに寄りました。

松井紫朗 展 「Forwards Backwards」
http://www.artcourtgallery.com/images/exhibition/2013/exhibition_2013_0511_matsui.html

以前ここで松井さんの作品を拝見した時もガラスの立体に水を満たして金魚が泳いでるものだったし、今日の作品も同様の試みがあり、金魚の好きなアーチャンはずっと中を覗いて喜んでいました。
以前拝見した際にこんな感想をわたしは書き込んでいました。

証券会館での黄色いバルーンでも少し感じましたが、性器的なものへのアナロジーや嗜好のようなものが笑えるイメージとして見えてきていて、それらがシンボル的な性格を帯びてきて、スケールを逸脱している様を強く感じました。
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20100522/art

先日拝見した、ツムテンカク2013 セルフ祭「船川翔司」展の感想で書き込んだ、死の世界を意識するアートと、生の世界を意識するアートのことを考えていましたが、今日の松井さんのアートにおいても類似したイメージを感じました。

より現代に近いデュシャンのような、固定化したレディメイドな製品や、ひもを使った停止原器のような、外観的には静的な世界に近いように見えるアートでありながら、性的な世界や動的なイメージに深く関りつづける作品は、より身近な位置に置かれ、机や床や壁にフィットして可触的である。
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20130526/event

同時に以前、INAXギャラリーで拝見した「集落が育てる設計図‐アフリカ・インドネシアの住まい‐ 展」のプリミティブな集落の姿も想起しました。

「集落が育てる設計図‐アフリカ・インドネシアの住まい‐ 展」
http://www1.lixil.co.jp/gallery/exhibition/detail/d_002260.html 
包絡する集落の建築の形態は、男、女、穀物、死者のスペースなどが分離されつつ、結合され、外部世界に対して強く閉じて防御的な姿をしている。

今回の作品で特徴的な、鉄や木製の、ごく普通の家具のような机とプリミティブなオブジェとが結合されていて、身近な可触的なイメージが伝わってきます。しかしそれらの家具はレディメイドでも無く、新規に作品の為に作られた様相が感じられ、オブジェを支持する以上の意味が附加されているように感じます。
それはアートを規定するメタレベルを独自に想起することの断念もしくは死の世界のイメージのような、固定化による観念の伝わり易さを回避するものであるのか、現実世界との結合を渇望するものなのか、分かりませんが、強い印象が残りました。
オブジェと連動するようなタブローは人間が極めて小さく描かれることによって、オブジェの断片が人間世界ではメガスケールであり、ランドスケープとの循環をはじめるような印象があります。
以前ギャラリーcasさんで拝見した川端嘉人展の感想を思い出す。

意味を剥ぎ取られた、フィギュアなオブジェを見るときに、これは個人的なイメージですが、それが人体よりも大きい場合、それを人体とランドスケープの中間体のように感じてしまう。そしてそれはメタ化の無限循環へと誘導する場合があるように感じる。見る側にとってはある意味息苦しい思考への誘導であり、作家の狙いでもあるだろう。
現代アートが社会に受け入れられ易くなってきた現在、そのような息苦しい思考への誘導は作家によって、意識されつつも、それぞれの方法によって表面化は避けているように感じる。むしろその避け方自体がメイン化しているような印象すら受ける。
メタ化の無限循環を止める、様々な多様な考えがあると思いますが、例えば最近多く見られる廃棄物系のアートもその一つではないかと感じている。廃棄された場所であったり、ひとつのアイテムに焦点を絞って、ゴミを採集することで、仮留めの安定化をもたらし、メタ化の無限循環をとりあえず止めて、思考を活性化するような。http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20100718/art

そのようなメタ化の無限循環を、今回の松井さんの作品において、どのように避けようと意識されているのか。
オブジェが机にフィットして身近なスケールであり、そしてその中を泳ぐ金魚やメダカたちの姿や、性器的なフォルムを見ていると、笑いを誘うような、根源的な生きるちからへの手掛かりとしてのフォルムの断片と感じました。
素晴らしい展示、ぜひ見られることをお薦めします。