ボン靖二「あとでみる」展

海遊館前でのバードショーを観て、西九条へ出て梅香堂さんへ家族で伺いました。

ボン靖二 「あとでみる」
http://www.baikado.org/docs/home.html
梅香堂より引用

作者のボン靖二さんは、まったく知らない作家さんで、初めての個展との事。梅香堂さんのHPでの情報でもどんな作品なのか、よく掴めなくて会場で作品を実際に観ても、最初はなかなか理解が出来ませんでした。
それで観たままありのまま記録する。
1階の材料のような廃棄物のようなものを、しばらく観ていると、娘のアーチャンが床に描かれた破線によるエリアの中に足を踏み入れた瞬間に、2階で誰かが1階に来た我が家に気付かれた様子で、靴音が鳴りました。僕にはそれが2階の人が1階の様子に気付いて、人が動いたのだろうと推測が着くのだけれど、アーチャンは、破線によるエリアと言うのか、一つのエンクロージャーが大きなセンサーのようになっていて、足を踏み入れたとたんに、そのセンサーが働いて、上で何かのマシンが反応して動いたんだと、イメージした様子で、それから何度もそのエンクロージャーに、足を入れたり出したりして、そして天井の穴を見上げて反応を待っています。しばらくして、反応が無いので飽きたのか、やめましたが、その様子は昨年、京都国立近代美術館で拝見した、「生存のエシックス」展の、「未来の家政学・Tea House of Robots」の時に笑顔をセンサーに見せるとシャッターが動いて反応するアートを思い出したのかもしれないと感じました。
瞬間的に、アーチャンはこのアートは垂直方向に、天井の穴を介して、繋がっているということを理解した様子。でも、それはおそらく、この作品にとっても実際、大きな意味があると感じるところですね。
それからアーチャンは、「これ、ゴミ?ゴミ?」と聞いてきて、触ろうとするので、「違うよ、触ったらアカンで」と答えながら、でもゴミとアートの違いを、どう理解させれば良いのか、実際にはとても難しいこと。それは地続きでもあるし、大きな階梯があるとも言えるし。
それから、一旦外へ出て、川側へ細い路地を巡り、急な木製の外部階段を登り2階のギャラリーへ。
梅香堂のオーナーさんが居られ、挨拶。
さっき1階から見上げた、部屋の中央の床に穴が開いていて、いわゆる吹抜けではなくて、本当に穴が開いているので、アーチャンには危険なので注意を促すと、オーナーさんが、蓋状の板の上に乗って穴から下を覗いて、大丈夫ですよと言われる。
たぶん、この穴から覗くと、作品の謎が解けるのかもしれない(と思いつつ、僕は観ない事にした)
おそらく、作者はこの画廊の、この1階から見上げる穴と2階への螺旋状の動線、2階から見下ろす床の穴との垂直の関係性に、自分の作品を刷り込ませていくようなアイデアを持たれたのではと推測する。(この画廊空間自体が、僕も最初に訪れた時に衝撃を受けたし、実際に小火で黒焦げになった小屋のフレームの様子は、それだけで充分に強度を持っているし。後で、作者さんとお話した時に述べた、不安定構造に近いような世界とも言える)
作者のボン靖二さんも在廊されていて、少し作品について解説してくださる。
この会場に廃棄物を持ち込んで、そこから作り上げていったらしい。そして廃棄物から製造物へと向かうようなものをイメージされているらしい。この辺りは、最近多くのアーティストが取り組みはじめた廃棄物アートに僕が感じる、廃棄物の持つ一種のイメージロンダリングのような、廃棄物として強い同質性を獲得している様を逆にシンボル的に活用して、それ以上、そのものの根源への問いを遮断するような効果を産んでいるような表現とは、かなり異なった印象を受けました。
2階中央にあるグレイのグラデーションの平面が、今回の展示物の、廃棄物から製造物へ向かうもののイメージを表しているらしい。
廃棄物のイメージロンダリング的な側面を活用せずに、彼のような形での作り方は、アートには見えなくて、ゴミとどこが違うと、解釈されてしまう可能性が高く、とても難しい取り組みとも言える(もしくは、廃棄物アートを手掛ける多くのアーティスト達も、本当はこのような形での表現にトライしたのであるが、理解されず、廃棄物をそのままプレゼンすることをあきらめて、安定的なシンボリックな何かのテーマの為の素材化の道を選ばざるを得なかったのかもしれないけれど)
僕の場合は、仕事において建築空間という、基本的に安心安全な健康な空間を作るという大前提があるし、その枠から外れる事はできないけれど、でも、物理的な意味ではなくて、認知的な意味での不安定構造物を作ることは、逆に必要なことなのでは無いかと思いつづけてきたし、それは、明らかにクライアントの了解や同意を得られる物では無いし、求められるものでも無いのだけれど、空間の強度のようなものを考える上で、それは欠かすことの出来ない方法のように思っている。
そんなイメージも、ボン靖二さんの作品に出会えた事で、再認識できたように感じます。