茂木健一郎著「脳」整理法を読む

一部引用
第4章 偶有性が脳を鍛える
偶然と必然の間の微妙な「あわい」の領域、すなわち、偶有性の領域のニュアンスをどれくらい
読み取ることができるかによって、投げやりでもなく、妄信でもない、バランスのいい生き方ができる可能性があります。コントロールできる/できないの区別についても、その両者の中間にある「あわい」の領域こそが大切なのです。

「脳」整理法 (ちくま新書)

「脳」整理法 (ちくま新書)

茂木さんの言われる「あわい」の言葉の感じがいいですね。
僕がものを作る時に手掛かりとしている「顔/カオス」も、同じようなことイメージしていたんだと改めて思う。
私達を包むランドスケープ自体の全体像はとらえることが出来ないが、日々出会う様々な世界(の断片)とコミュニケーションしていくなかで、かたちを作り出していくことの楽しみと不安な気持ちが同時に生じていく。
あともう少し考えを進めて、偶然と必然を見つめている個人としての自分が、どのような視点で、そこに立っているのかについて考えてみたいと思っていて、茂木さんの著作は、その手掛かりになりそうですね。

これを書きながら、何となく頭に浮かんだ雑然とした思いをメモしてみる。
以前、哲学者の東浩紀氏が

確かに超越的なものは必要です。しかし僕はそれは決して伝統や国家にも(形而上学)、ニヒリズムにも(否定神学)求めない。これは『存在論的、郵便的』以来の一貫したテーマです。http://www.hirokiazuma.com/blog/
東浩紀氏のblog 2004年02月02日より引用

と発言されていたけれど、彼の考えもまた、偶然と必然を見つめている個人としての、その視点をいかに獲得していくかの試行のようにも感じる。
話は飛ぶけれど、先日の選挙結果を見て、多くの人が東氏の言う伝統や国家という形而上学的な世界(かなり分り易い形としての)へ傾斜していったのかもしれない。自分が、今現在、どこに立っているのか知る事は、なかなか個人としては難しい問題であり、その不安からの脱却として、伝統や国家へと傾斜していくのも、理解できるところだ。
選挙結果に対する知識人としての発言の中で、特異な感じの内田樹氏の

「勝者の非情・弱者の瀰漫」
http://blog.tatsuru.com/archives/001227.php

を読んでいると、その内容はともかくとして、内田氏の視点自体が、ニヒリズム的というのか否定神学的な傾向に彩られている感じがする。その論法は明快であるが、新しいものを作る上でのエネルギーになりうるのだろうかという気がする。ある解剖学者さんが内田氏の発想法を日本では珍しく対偶証明法(「すべてのSはPである」と「すべての非PはSではない」の真偽は一致する。そこで、「すべてのSはPである」の真偽を判定するときに、「すべての非PはSではない」という命題を吟味するという証明法)を使っていると評されているようだけれど、それは否定神学的発想法のことを指しているのかと感じてしまう。
形而上学でもなくニヒリズムでもないような、視点はいかにして可能なのか?無意識的な言語を介さないコミュニケーションにも限界がどこかにあるだろう。