内田樹氏のblog

内田樹氏のblogには大変ユニークなテキストが日々述べられているけれど、時々、そうかなという部分もある。下記のテキストのような部分と異なった知見を述べるのが、哲学やアートの一つのあり方であるかもしれない。

2006年02月03日 「まず日本語を」より引用
独創性は母国語運用能力に支えられるというと意外な顔をする人が多い。だが、創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず「次の単語」が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。母国語を話していながら、「次の単語」が出てこない人間、階層構造をもった複文が作れない人間はどのような知的創造ともついに無縁である他ない。

人間が言語を獲得する事で失ったものも多くあるはずだ。僕の個人的な経験からすると、階層構造を持った世界と持たない世界の中間に創造の手掛かりはあると思う。そしてそれは創造というより創発的な事であり、それをメタ化する意識の働きにおいて言語が係わってくるのだろう。その係わりについて、その係わり自体をさらにメタ化して階層化してプレゼンしていくか否かで、創造物のあり様が異なってくるだろう。それぞれの段階においてユニークな創造は行われているし、その意味において、内田氏の言われる「階層構造をもった複文が作れない人間はどのような知的創造ともついに無縁である他ない」は(ジョークであったとしても)乱暴な意見と感じる。「階層構造をもった複文が作れない人間」(こういうくくり方自体嫌だけれど)とコラボレートして、創発的に現われたものを、言語的にメタ化されたレベルの創造物とする為の協働(それがもちろんベストな表現段階と言う意味ではなく)することも、よく行われている行為であり、(例えばアトリエ・インカーブの試みのように)それも、ひとつの創造の形であろう。そして、それは「階層構造をもった複文が作れる人間」の行為においても、「階層構造をもった複文が作れる人間」どうしのコラボレーションにおいても、同じ事が言えるはずである。