国立国際美術館にて、ゴッホ展を観る。

10年ぐらい前に、京都国立近代美術館での「ゴッホと浮世絵展」観て以来、久し振りの生ゴッホ。展覧会の企画もその時と同じく圀府寺司氏。
会期の最後の4日間は夜8時まで開いているので、アーチャンが保育所から帰るのを待って、涼しくなってから出掛けて、混雑を避けて観てきました。それでも結構混んでいました。
ゴッホが影響を受けたであろう同時代の作家達の作品や、浮世絵のコレクション、模写の元ネタになった作品(ミレーのさらに模写の小さなモノクロの銅版画を観てゴッホは描いたようだ)を混在させて展示している。この辺りは面白い構成でした。ゴッホ自身の若い頃のスケッチを元にタブローの作品を描いているところの解説もあり、ゴッホにとっては、他者の作品も、自身の作品も、模写のプロセス通じて、メタ化し、新しい解釈を付け加えようとしているようだ。
企画の圀府寺司氏の視点も、そこを明らかにして、ゴッホの神話化された作家像を解体して、作品をピュアに観られる環境を作ろうとしているようだ。「ゴッホと浮世絵展」での彼の指摘、ゴッホの独特の油絵のタッチは彼が観た浮世絵の縮れた紙の感触を再現しようとして得た技法だ、というところとか、ユニークな視点の方だと思う。「夜のカフェテラス」の街灯や、肖像画の指輪等、シンボリックな対象物が、独特のタッチによって、レリーフのように立体的になっているところがあり、ゴッホの絵画の魅力を、そこにリアルに感じられた。
ただ個人的には、映像文化的なものへの時代の渇望のような視点を期待していたので、少し残念でした。ゴッホの没後の翌年1891年にエジソンのキネトスコープが発明されているから、時代の気分として、動画への無意識的な欲求は高まっていたのではないかと想像する。ゴッホの作品自体がバイブレーションするような効果を求めた描き方になっているし、動く要素をたくさん盛り込んでいる。そこへの興味から期待していた、ゴッホの実質的な最後の作品ではないかと言われている、2枚の「ドービニーの庭」http://www.vggallery.com/painting/p_0777.htmのうちのひろしま美術館所蔵分http://www.vggallery.com/painting/p_0776.htmが大阪展には来ていないのが残念でした。おそらくゴッホは2枚のタブローを並べて、同時に視野に入れることで、動かない絵画が、バイブレーションするような感触を得ていたと想像する。2枚をプリントして、並べてみると、ユニークな視界が開けると思う。
調べてみると不思議な事も記録されている。一体何の為にこんな事するんだろう?何かの番組で、黒猫が消されているのが、ゴッホの死の遺言とか、言っていたけれど、違うようだ。事実は奇妙なものかもしれない。

ジュディット・ジェラールの手になるとされている手稿「ジュリアン・ルクレルクの罪」(資料)には、ルクレルクがシュフネッケル兄弟と組んで<ドービニーの庭>(ひろしま蔵)に手を加えていたことが伝えられている。ルクレルクとシュフネッケルが「この猫はうまく描かれていない」という理由で黒猫を塗りつぶしたこと、それがどのように行われたかをこの手稿は克明に伝えている

蘭学会会誌第22 巻第2 号(通巻44 号)抜刷
ファン・ゴッホ作<ドービ二一の庭>─その来歴と関連資料─圀府寺 司著より引用
http://homepage3.nifty.com/artopics/goghcat/gogh.pdf

http://www.nmao.go.jp/
国立国際美術館のHP

http://www.vggallery.com/