加藤 泉『はるかなる視線』

某所でのミーティングを終えて、心斎橋のSIXへ行き、加藤 泉『はるかなる視線』展を観ました。

加藤 泉『はるかなる視線』
7月9日(土)〜 9月11日(日)
アートスペース Six
http://gqjapan.jp/2011/07/04/%E7%94%BB%E5%AE%B6%E3%80%81%E5%8A%A0%E8%97%A4-%E6%B3%89%E3%81%AE%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AA%E4%B8%96%E7%95%8C/

昨年の国立国際美術館での「絵画の庭─ゼロ年代日本の地平から」展で、拝見していましたが、その時の印象を「全体を通して感じる、不安感のような、悲しみでもなく、怒りでも無いような、鬱屈とした感情は、僕はアートのちからのように感じます」と記していましたが、今日も同じようなイメージの作品群。
でも国立国際の場合は多くの作家達のうちの、ひとつのコーナーという感じで、アーティストが世界観を伝えるのには、点数もスペースも足らない感じでしたから、今日のSIXの展示のあり方は、作者のイメージがよく伝わってきました。
タブローが衝立のように両面にキャンバスが額縁無しで立てられていて、衝立状のタブローとタブローで分節された直列に並ぶ小空間に木彫作品が置かれている感じ。
ひとつの固定的な空間としての演出がイメージされているような印象で、衝立状のタブローにしても、軽量可搬なものとしての衝立という感じではなく、固定的な壁を形成しているような。木彫の荒々しい表現や、タブローと木彫に共通して印象的な目の宝石の原石をちりばめたような表現を観ていて、僕は少し前に観た、「ロシア皇帝の至宝展〜世界遺産クレムリンの奇跡〜」展での王冠や特にパナギアのような装飾の、荒々しい原石の扱いを思い出し、作品世界から感じるロマネスク的なテイストと重ねて観ていました。
ロマネスク美術の作品の多くは、建築物と一体となっていて、固定的で持ち出しが出来ない為に、実物を見るには現地に行かなければいけないという、近現代のイメージの流動性とは真逆の固定性を、今日の展示構成は意識しているのだろうか。木彫は独立していて、可搬的なものであるけれど、表現において、ロマネスク的なレリーフとして建築物の壁に半分埋め込まれたような、独特の歪んだ空間表現のようなものを、意図的にその場から切り出したような印象がありますね。
衝動的な直観的な表現に表向き見えているけれど、意識的、戦略的に構成された作品群と感じる。