小出 麻代 展「空のうえ 水のした 七色のはじまり」

(2014年6月7日のメモより)
午後、西九条に出て、the three konohanaさんへ。
Konohana’s Eye #4 小出 麻代 展「空のうえ 水のした 七色のはじまり」を観ました。

Konohana’s Eye #4 小出 麻代 展「空のうえ 水のした 七色のはじまり」
http://thethree.net/exhibitions/1640

小出 麻代さんはまったく知らないアーティストさんでしたが、在廊されていて、いろいろお話直接聞く事が出来ました。
版画専攻されていたそうで、紙の選択のテイストなど、とても親近感が湧きました。私は作者の内面や思想的なことよりも、最初やはりそこにある物質的な面が気になりますし。
銅板画の時によく行なう、紙の水張りのような感じでベニヤ板に貼られたファブリアーノ社製の紙の質感。
その他の紙類も全て額装ではなくそのまま、紙の質感を感じられるように、ピンやクリップで壁に留められている。
全体の構成は、紙だけでなく様々な素材使ったインスタレーション
展示場に張り巡らされ、テンション掛けられた糸の端部が一方は壁にピンで留められ、他方は壁のちょっとした隙間や襖の隙に入っていき、視覚から消えていく。
ホワイトキューブ的な展示室には、もうひとつ別の試みとしてのエンクロージャーの閉じた地図図形を活用した版画的な作品群がありました。(作者の海外滞在と関わる都市のエンクロージャー)
地図図形を無限に展開印刷することで、包み込むような形態が生じている。
奥の和室の展示室にも様々な素材使ったインスタレーションがあり、ドアから外界へ突き抜けていく。それと同時に印象的な、床に置かれたヨーロッパの綿毛が舞う季節の光景をイメージした透明なアクリルにプリントされた作品群など。綿毛をイメージしたアクリル板の作品は、泡宇宙を連想させる。
可触的な紙のテイストから、地図のエンクロージャーへ、そして宇宙的なスケールへの連続。
スケールの連続感が気になり、小出さんに尋ねると、電線のある風景を見つめるのが好きなのだそう。電線のような目によって捉えられる範囲の姿と、そこから外れて延々と繋がっていくものとが流れていくところが良いと。
その時、私の頭に浮かんだのは、昭和初期の詩人の中原中也の空間の循環詩のような海岸峡のような一次元と二次元の中間体から連続して花弁になり楽器になり音楽のような時間軸を持ったものや四次元的なものへの変容のイメージでした。
同時に、以前、the three konohana さんで拝見したDirector’s Eye #2 野口 卓海  「まよわないために -not to stray-」展で感じた、モダニズムの方法論へ接近するような作品群の事を思い出しました。
そこに、私は下記のような感想を記していました。

「リアリティとの戯れ Figurative Paintings」展の作品に通底しているように感じた、観察者中心座標系の揺らぎのようなものに対して、今回の「まよわないために -not to stray-」展に感じたのは、そのような内部的な感覚が外部に明確に取り出され、視覚化、構造化されているのではと。2年前に出展されている作家とは人も作風も全て異なりますが、同じ世代の人達としての共通した部分が、仮縫いの状態から一歩進んで、明確化してきているような印象を持ちました。
トークショーでは、皆さん、エリアが明快に分かれているので、グループ展というよりも個展の感覚で参加できたと語っていましたが、でもそこに共通したものが表れ相互に影響し合っているように感じました。
二つの構造のようなもの。
ひとつは、「リニアーな直線的な形態は、生成伸張の限界点において揺らぎはじめ不安定構造となる」
もうひとつは、「包絡された形態は、安定的な構造となる」
(中略)4名の作品には共通した構造が感じられるが、その組合わせはそれぞれ独特なあり方をしている。
(中略)個人的には、カオスになるまでに切断してしまうのが近代的な思考モデルであるとすれば、カオスと並走しつつ包絡していけるのが現代の思考モデルであるかもしれない。

野口 卓海  「まよわないために -not to stray-」展のブログ記録
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20140307/art

小出さんのイメージにある、電線のあるランドスケープ=有限であるが、個人の視覚認知によって断片的に切り取られていく光景の連続体の表現は、むしろ絵画の方が、無限遠をカオス的な非決定な存在とすることで、明瞭に示すことができるのかもしれない。
しかしそれは静止した一面にしか過ぎず、観る人との距離によって変容していく、ライブ感は生じ難い。
そこを超越する為に、2次元と3次元の表現の中間体のような、両者のリアリティを成立させるような表現の模索をされているのだろうか?
最近私が思っている「生き延びる為に意識は世界を瞬間的に切り取り、無意識はそれを緩慢に結合していく」、そのようなイメージに近いものを小出さんの作品世界にも感じるし、しかしそれを作品化することは、常に説明的なイメージの、陳腐化の恐れと共にあると感じるし、終わりの無い作業を伴うことになるだろう。
「展示場に張り巡らされ、テンション掛けられた糸の端部が一方は壁にピンで留められ、他方は壁のちょっとした隙間や襖の隙に入っていき、視覚から消えていく。」という表現は、その限界を示しているように感じるし、その端部の表現が最も困難な作業になるとも感じる。
個人的には、作品のスケールとしては、とても小さかったけれど、可触的な綿毛(=世界の断片)が乱れ飛ぶ光景が、一気に次元をジャンプして、泡宇宙へと繋がっていくような、アクリル板の表現に、人間の認知能力の限界とそれを超える可能性を同時に感じました。
素晴らしい作品との出会い、感謝。

中原中也の詩、引用。

在りし日の歌
作品名読み: ありしひのうた
著者名: 中原 中也 
http://www.aozora.gr.jp/cards/000026/card219.html
青空文庫より
http://www.aozora.gr.jp/index.html

むなしさ

臘祭の夜の 巷に堕ちて
 心臓はも 条網に絡み
脂ぎる 胸乳も露は
 よすがなき われは戯女

せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕めり
遐き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風

白薔薇の 造化の花瓣
 凍てつきて 心もあらず
明けき日の 乙女の集ひ
 それらみな ふるのわが友

偏菱形=聚接面そも
 胡弓の音 つづきてきこゆ