加賀城健展「ヴァリアブル・コスモス|Variable Cosmos」

午後、此花区のアートギャラリーのthe three konohanaへ家族で伺いました。
昨年、山中さんがキュレーターされた、奈良HANARART2012の郡山城下町エリアの旧川本邸会場に出展されていて、とても印象的な布の作品を作られていた加賀城健さんの個展。

加賀城健展「ヴァリアブル・コスモス|Variable Cosmos」
http://thethree.net/exhibitions/past/651
the three konohanaより引用

HANARART2012の郡山城下町エリアの旧川本邸会場でのトークショーもお聴きしましたが、加賀城さんが

例えば伊勢神宮の祭殿に吊るされた布が風に吹かれてめくれ上がる時に、参拝者の思いが伝わったように感じる、そんな人と自然現象との偶然の一致のようなものへ思いを掛ける人の心の有り様と布のイメージ

と言われていて、中庭の外部の吹き抜け空間に巡らされた色鮮やかな布が風に揺れていて、印象に残りました。
他の方の作品も含めて、「作品世界へ一歩踏込むことで、そのイメージの中へ没入していき、同時に意識の世界へ戻ってこれる体験を産み出していて」と感じたし、また違う作品も観てみたいなと思っていました。
the three konohanaは屋内の展示室ですから、風に揺れてということはありませんでしたが、白い展示室の中央に置かれた、祝い屏風のような来客を迎えるように折れた(もしくは開かれた)布のオブジェが布の表面と反対側の布の裏面とが透けて同時に観えてきて、自然に奥へと誘導されていきました。
祝い屏風のように感じたフレームが、しばらくすると、サッカーの対角線審判法の主審の動きを示すような、左対角へ折れていることに気付き、そしてその流れに誘導されていきました。
壁に沿って小さな布のキャンバスのような作品群が遠い世界にように置かれています。
長い白い壁には着物一反分が鮮やかに染められていて、ストライプ状にピン留めされていました。
北窓の型ガラスに何かが塗られていて、お聞きすると、中央のオブジェの布の染色で色止めに使う糊だそうで、本来色止めが済むと洗い流されて廃棄されてしまうものを、ここでは下地のようなグランド的なものから、フィギュアへと転化して使われていました。光の具合で赤くキラキラと光り美しい。
一周して、奥の和室に行くと、部屋を濃密な色彩で染められた布で囲い、それをまるで蚊帳をめくるようにして、中に入りました。さらに奥には左右対称なデカルコマニーのように偶然生じたような絵画が掛けられている。濃密さから、旧川本邸会場(元遊郭建築)のイメージを連想。
再度、白い展示室の中央のオブジェのところに出て、見つめていて、その様相から、私が20代の頃(1986年)に信濃橋画廊のサマーフェスティバルで一緒に選ばれ出展された、大阪芸大の奥田右一さんのスクラッチの作品の亀裂だらけの画面を思い出しました(奥田さんのスクラッチとは、紙に色を塗り、乾いてからグシャグシャに丸めて、広げてまた色を塗り、乾いたらグシャグシャと、これを無限に繰返して、紙がボロボロになって亀裂だらけの限界までで止めて、という作品でした)
後日、このはなの日の布のワークショップの際に、加賀城さんに奥田さんのことお聞きすると、芸大の頃の先生であったらしく、でも専門科目は異なるし、当時の作品のことはご存知ないとのことだったので、直接影響を受けられたのでは無いようでした。布のワークショップの方法が、布を丸めて、輪ゴム等で絞り、染色液をふりかけて、という方法だったので、スクラッチの方法をより強く連想したのかもしれません。

後日の、このはなの日の我家のワークショップの様子(転載許諾済み)
布を丸めています。

染色液を掛けているところ、加賀城さんが丁寧にサポートしてくださいました。

酢酸液に付けて

水洗い(していただいて)

乾かして出来上がり、アーチャンの。otonariさんで皆さんに見せました。

カーチャンの

同時に、祝い屏風のように感じていた布のオブジェが、巡っているうちにまた異なったものに感じてきました。
the three konohanaの最初に拝見した展覧会、伊吹拓展の時の感想に、私は最後のところで、「デュシャンの大ガラスのように、もし透明なガラス面もしくは画布に彼が描いたらと空想した」と書き込んでいたのですが、加賀城さんの布のオブジェが、そのような透明な画布に描かれた(染められた)、大ガラスのように感じられてきました。
祝い屏風、対角線審判法の流れの軸のような、そして大ガラスのような。
意識が瞬間的に切り取る世界のイメージを、無意識世界が緩慢にゆっくりと繋げていくような。そしてそうやって繋がれた無意識世界が造り出すイメージを再度、意識が断片的に切り取っていくという繰り返し反復の中にリアリティが生じてくるに違いない。