Konohana’s Eye #3 鮫島 ゆい 展「中空の雲をつかむように」

午後、西九条に出て山中俊広さんのthe three konohanaへ行き、Konohana’s Eye #3 鮫島 ゆい 展「中空の雲をつかむように」展を観ました。
とても刺激的な作品ですが、複雑で分らない部分もあり、当日、鮫島さん不在でしたので後日再度訪問し直接お話も伺えて理解が深まりました。

Konohana’s Eye #3 鮫島 ゆい 展「中空の雲をつかむように」
http://thethree.net/exhibitions/1438
the three konohanaのHPより引用

行く前に、the three konohanaさんのHPで作品の画像見て、直感的に、私がずっとライフテーマのように考えてきた「顔/カオス」的な世界観ではないかと感じました。
「顔/カオス」というのは、顔=誰にでも分かりやすい決定論的世界と、カオス的な非決定論的世界とが混じり合っているイメージ、という漠然としたものですが、直観的に言ってる部分もあるので、それを具体的に描いて説明というのは、とても難しいし、安易に描くととても陳腐なものになってしまう。
ギャラリーのHPの鮫島さんの作品を拝見して、そのイメージを共有されているのではと思って、伺い、実際作品のなかにもそう感じるところがありましたし、山中さんから、過去の作品ファイル見せていただくと、もっと明快に顔/カオス的な世界が繰り広げられているように感じました。
そして、その表現が陳腐ではなく、強度を持って存在していることに、インパクトを受けました。
同時に最近、興味を持って探求しているデュシャンの、特に大ガラスとの類似を感じるタブローもあり、ちょうど理解を深めたいと思っていたところなので、デュシャンの作品と文献とを照合しながら、理解を深めていきたいとも思います。

デッシャンの大ガラスの性的イメージで区分された2段のうちの下半分は、独身者(男性)の世界=透視図法で3次元の世界の2次元世界への投影として描かれている。透視図法という、ものの配置が一義的に無限遠まで確定可能な、ある意味で決定論的な世界と、上半分の花嫁(女性)の世界=雲のような不確定な形態すなわち非決定論的世界が、4次元世界の不可知な想像上の存在として、その断片としての3次元への連続体がさらに2次元へと投影されている、とても複雑な構成になっている。
しかし、上下の世界は金属の枠によって分離されていて、交わることがない。
鮫島さんの作品にも、類似した構成の、下半分が透視図法的な構成で、上半分が雲のような迷路的な構成のタブローがありましたが、しかし大ガラスのように、上下に明確に区分する構造物は、歪んだ垂れ下がる形態によって、繋がったようになっていて、その点もとても興味深い表現と感じました。そしてその垂れ下がる表現も、偶然の表現ではなく、きちんと描かれた形態であることも重要と思います。
制作の源泉のような、イメージは立体のオブジェに出てくるらしく、それを2次元のタブローへと変換していく作業のルーティンであるらしい。立体という嫌でもリアリティの中に放り込まれるものと、どこまでやっても結局ビジョンに基づく描かれた物でしかない、タブローと。
タブローの中に、リアリティを、そして強度を出す為に、偶然性の要素を持ち込まないで、描く行為のみで、決定論的世界を超えるには、おそらく立体物に表出したイメージを、延々と描き続けること、そしてその迷宮的な描かれたイメージの、離散的ともいえる変化のベクトル=指向性のなかに、見出される可能性があるのかもしれない。

後日再訪し、鮫島さんに分らなかった点など、お聞きできました。

前回拝見した時に、ひょっとして天地を逆にした時に見えてくるものを意識的に反転して設置しているのではと感じたのですが、見たものを頭の中で回転させるだけではイメージを掴みきれないので、分らなかったので、直接お聞きした。
(最近、デュシャンのことずっと考えたり読んでいるけれど、デュシャンが大ガラス制作後、表向きには絵画の放棄をしていて、何故放棄したのか考えているうちに、結局、人間的な限界、視覚的網膜的な絵画の限界を超える試みをしながら、結局、それは絵画的表現によってしかなし得ないのと、大ガラスにしてみても、上下の空間次数に柔順な配置がやはり重力に支配されたノーマルな人間の感覚の表現になっていて、それを超えるような表現となっていないことへの限界を感じたのではと思ったこと)
鮫島さんが、上記のような意識から、感覚的に描かれた世界を意識的に壊す作業としての天地反転をされたのではと思いました。

鮫島さん1点だけ、描いてる途中で天地反転されたものがあるそうで、ちょうどHPにも掲載されている、顔的な印象の強い作品でした。描き始めた最初の印象で上下のバランスが悪いと感じてのことらしい。
でも、天地逆転することで、顔的イメージが強く出てきているという、予想と反対の現象が起きていることは面白いエピソードと感じますね。
私が『ひょっとして天地を逆にした時に見えてくるものを意識的に反転して設置しているのでは』を意識しだしたきっかけは、いわゆるアールブリュットと呼ばれる領域のアートの可能性や意味について考えたことからですね。
もちろんそれは我娘アーチャンの視覚認知に変異があることに気付いてから、いろいろと医学論文等を探して読むうちに、脳の先天的に生じている変異(発達障害児のほとんどは左脳に変異がある。左脳側に観察者中心座標系はあるとされる研究があります)と同様の現象が、ノーマルな人が生命の危機に陥った際に、命を守るために必要最低限の部位のみ作動させるよう、脳も選択して作動させていることによって起きているのではとの推測(例えばサードマンと呼ばれる、生命の危機に際して経験した幻覚上の救済者の存在)の考えを知ってからでしょうか。

Prader-willi症候群の視覚認知特性について(慶應大学医学部精神神経科 前田貴記)
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20090119/artanart

「奇跡の生還に導く声〜“守護天使”の正体は?〜」
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20130513/brain

それと、山中俊広さんが少し前に企画された、なんばパークスでの『リアリティとの戯れFigurative Paintings』展で感じた、『構成障害的表現をある意味偽装しているようなアートと言ってしまうと比喩は適切でないかもしれないけれど、その偽装のようなものに、ある意味で希望のようなものが見えてこないかと思い始めている。むしろ観察者中心座標系をいかに壊す事ができるのか、どのような方法があるのだろうか、そのような探索に深い意味(リアリティ)があるのではないか、そんな風に思い始めている。それは逆にアーチャンへのアートセラピー通じての、観察者中心座標系の変異から、いま、ここ的感覚の獲得への介入の、こちら側からのジャンプのように』という思いにもつながります。

『リアリティとの戯れFigurative Paintings』展
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20120325/art

それ故に、鮫島さんの絵画から、苦しい精神状況とも言える重いイメージも感じるのですが、そのような世界をメタに、指向性を持って描く、明瞭な意識も同時に強く感じます。
可能性に満ちた作品。