HANARART2012 旧川本邸
朝からHANARART2012の郡山城下町エリアの旧川本邸会場へ行きました。キュレーターの山中俊広さんと、参加アーティスト5名によるトークセッションも聴講。
山中さんのアートに対する姿勢は、偶然立寄ったYODギャラリーでお会いしてから、様々に企画されるYODでのユニークな作家達のことや、YOD以後のお仕事としての、なんばパークスでの展覧会「リアリティとの戯れ ‐Figurative Paintings‐」のインパクトがあり、これは見ておきたい展覧会と感じて行きました。
旧川本邸は現在は大和郡山市の所有で地域ボランティアによって保存・管理が進められているそうですが、元は遊郭だったらしく、建築空間及び歴史的な街並み保存の面での興味もありました。
(下記、画像転載許諾済)
HANARART2012
郡山城下町エリアの旧川本邸
http://hanarart.main.jp/2012/area_k_kawamoto.html
午前中に旧川本邸に着いて、展示を見終わった頃にキュレーターの山中さん来られたので挨拶して少しお話も出来ました。
以前、拝見した「リアリティとの戯れ‐Figurative Paintings‐」展の時に感じた、アールヴリュット的表現を偽装する人たち(それは個人的には悪い意味でなく、脱抑制して無意識世界の爆発的なエネルギーのあるがままの状態と抑制的な意識世界との振幅を行き来できる人というイメージ)という印象と、今回の元遊郭という、ある意味でごく普通の人が日常的に生じているsex体験=脱抑制をビジネスとして制度化して空間化(抑制的世界へ)しているものとが融合しているという点で、共通しているのではと思いました。(なおかつ、過去の遺物であることで、現役の風俗施設ではなく、訪れる人それぞれが、自分の物語の中のひとつの事象として組込み易くなっている)
この場所を山中さんは、おそらく主催者から指定されたのではなく、主体的に選択したのではないのかと(午後のトークセッションで山中さんは最初別の展示場を意識していて見学したところ、あまり印象的でなかった時に、帰路、この建物を見る機会が出来て強くインパクトを受け、ここを選ばれた偶然の経緯など知りました)
「リアリティとの戯れ‐Figurative Paintings‐」展と今回の旧川本邸はまったく別のイメージの展示と山中さんはお考えのようですが、やはり同じ人の連続した思考として、深い部分で繋がっていると感じます。
個々の選ばれたアーティストの作品も、何度も皆さんでこの建築空間を訪れて、それぞれに感じたイメージを作品化されていて、クオリティも高く、また私自身が建築デザインする際に意識している空間と人とのフィット感のようなものが、作家同士の交流の中で共有されているかのような、時間を掛けて構想されてきた密度がありました。そこが一番素晴らしいところと感じます。トークセッションでこの空間への熱い思いを語る人、対照的に淡々と受け入れている人と様々でしたが、まるでチームとして闘っているような。
アーティストさんのうち、前谷康太郎さんの映像作品のみ既に他のギャラリー等で拝見していて、他の方は初めて知る人ばかりでした。野田万里子さんの作品は立体のインスタレーション的なもの。他のアーティストたちは二次元的な表現でした。
昨年から継続してこの会場への強い思い入れがあるらしく、深くこの建物の歴史やイメージを読み込んで作品化されていて、とても構築的な印象。
玄関の鮮やかなカラーの盛り塩のインスタレーション。通い婚の時代、主人は馬に乗ってやってくるので、玄関先に盛り塩して馬を懐けたところからの商売繁盛のおまじないを隠喩として、玄関に作られたらしい。
旧川本邸のテーマが「記憶」をゆり動かす「いろ」という事で、その始まりの作品として、色彩豊かな色の粒が用いられていました。この色彩の様相が他のアーティストの作品に伝染していったのか、もしくは他のアーティストが始点になって響きあっているのか分りませんが、会場を繋ぐイメージが感じられます。
野田さんが強く希望された場所が浴室。山中さんは素の部分の建築を示したかったので、ここは何も展示しない予定だったそうです。
中に入り、壁も床も天井も全て何物かの断片に覆われていて、包み込まれていきます。とても濃密な空間になっていました。
2階の出窓に置かれたカラー水を入れた瓶。
会場に野田さん居られ説明も受けました。
障子から見えるきれいな瓶の中には魚の鱗が浮いています。それは水の中から決して逃れることのできない魚のように、同様に、ここから逃れられない遊女たちを暗示している意図らしい。
そのようなイメージよりも、近づいていくと瓶や鱗のようなディテールがよりリアルに見えてくるのに対して、さらに奥に首を突っ込んで出窓の様子を見ようとすると、一挙に抽象的なラインになって、ディテールが消えていく様が印象的でした。
会場に入ってやはり目に入る中庭の吹抜けに巡らされた加賀城健さんの染色された布の作品はとても鮮やかなもの。玄関の野田さんの盛塩の作品の色彩のイメージが伝染してきたような。
トークで加賀城さんから、例えば伊勢神宮の祭殿に吊るされた布が風に吹かれてめくれ上がる時に、参拝者の思いが伝わったように感じる、そんな人と自然現象との偶然の一致のようなものへ思いを掛ける人の心の有り様と布のイメージとをリンクしてお話されていました。実際、トークショー中も風に吹かれてイメージが増幅していました。
1階の廊下から。
2階の廊下から。
中庭外部から。
前谷さんの映像作品は、以前なんばのcasで展示されたものを、二部屋に別々に設置されていました。まったく人工的に作られた地球の裏側の太陽の、日の出から日没までの明滅のイメージ。(画像に会場の観客の会話などが入っていますので、作品自体は無音の映像のみですから、再生される場合は音を消して見られるほうが良いと思います)
トークショーで割と無口な感じの前谷さんの代わりに、山中さんから、「地球滅亡後に宇宙へ脱出した人々への精神的な癒しを与える」イメージが込められたものと解説。梅香堂さんで初めて前谷さんの映像作品を拝見して、此花メヂアやcasさん等でも続けて拝見して、感じるところと重なりますし、パラレルの概念から拡張して、トラウマ治療としての眼球運動のEMDRのようなセラピーを連想してしまう。今後そのような意味で、とてもユニークな作品を作られるのではと期待するアーティストですね。岡本啓さんの大階段の作品。トークショーでこれが写真の手法を使った作品と聞かなければ、そう気付かないイメージ。
地下鉄の階段などで、広告としてイメージが挿入されている事がありますが、ここでは上の階へは入場禁止になっているので、踏込む事はありませんが、頭の中では、イメージの中に入り込み、踏みつけていくような姿を連想した。繋がった全体像を暴力的に断片化するイメージなのか、もしくはその逆に引いてみる事で、全体像を回復しようと促すものであるのか、見た人の関るその時の心象に付託されている。
廊下を挟んで、小部屋(赤線廃止後に、ここは普通にアパートとして使われていたらしく、その入居者の痕跡がいろいろと残っている)床に置かれたイメージが階段と同時に見えてきます。
中島麦さんはトークショーで、この建築や遊郭としての歴史などから、明と暗、光と影の印象を軸に情念のようなものをイメージされたらしい。
窓のある部屋に横に置かれた白いキャンバス(高さからテーブルのような)
閉じた暗い部屋に横に置かれたキャンバス。
最初、会場マップの作者欄を見ないで廻ったので、1階の浴室の作品のテイストから、同じ作者だと思い込んでいました。もし実際テーブルに使用できる素材で、休憩所に置かれていて、作品に触れてその描かれた世界に没入できたなら、さらに効果的だったのではと空想した。いずれの作品にも共通して感じられたのは、作品世界へ一歩踏込むことで、そのイメージの中へ没入していき、同時に意識の世界へ戻ってこれる体験を産み出していて、この旧川本邸の空間の特性を活かしつつ、仮設ではあるけれど、恒久的に在っても許せるクオリティとなっていた事ですね。
それは、おそらく山中さん含めアーティスト達が、維持保存に関して異論もあるらしい、この建物の在りかたに対してのアートのちからの有効性を示すことに尽力されたことの結果と思います。
旧川本邸のトークショーを聞き終えて、外に出ると、隣接するお寺の門柱の脚部が新しい木材に継がれていて、美しい姿。そして、その塀が旧川本邸の外壁と繋がっているような関係になっていて、それが遊郭の時代からなのか、アパート用途になってからのことなのか、分りませんが、街のなかに存在した遊郭の歴史を、特別な物でなく切り離さないで、地続きとされている周囲の方々の心の有り様に、共鳴しますね。
良い経験となりました、感謝。