加賀城 健「Manipulation / Interchange」展

加賀城 健「Manipulation / Interchange」展
http://thethree.net/exhibitions/past/5823

the three konohanaにて、2022年1月9日に前期展を、2月13日に後期展を観ました。

前期展の作品は、過去に何度か拝見した作品の構成の延長上にあるもののように感じました。
最初に加賀城さんの作品を拝見した、奈良HANARART2012の郡山城下町エリアの旧川本邸会場 での染色の布の作品に感じた「作品世界へ一歩踏込むことで、そのイメージの中へ没入していき、同時に意識の世界へ戻ってこれる体験を産み出していて 」な印象 https://prader-willi.hatenablog.com/entry/20121103/art と、その後に2013年にthe three konohanaでの「「ヴァリアブル・コスモス|Variable Cosmos」 展 https://prader-willi.hatenablog.com/entry/20130907/art で拝見した、「祝い屏風のように感じたフレームが、しばらくすると、サッカーの対角線審判法の主審の動きを示すような、左対角へ折れていることに気付き、そしてその流れに誘導されて 」な構成とが組み合わさったように感じました。
祝い屏風のような形態は、平面としてのXY軸と、布の透過性により両面から作品を感じるXY軸に直交するZ軸を感じさせるのですが、身体との関係において、踏み込むもしくは包まれるという視覚体験を超えたものは感じにくいものでした。今回の展示においては、対角線審判法的な誘導と同時に布地の大きなフレーム全体が斜めに傾いて設置されていて、そのことに依って、傾斜の間に入り込む事が出来て、かつZ軸のちからを直接的に感じることが出来るものとなっていました。これは表現形式としてひとつの完成形ではないでしょうか。染色の方法も身体をフルに使ったような痕跡が強く感じられます。

後期展はよりシンパシーを感じるというか、個人的には衝撃を受ける作品群でした。
ギャラリーの山中俊広さんから詳しく制作方法をお聴きして理解が深まったのですが、マーブリングに近いようなことを染色の技法で試行されていました。色彩の選択もくじ引きのように偶然の組合せによる、染色もほぼ手を掛けず、自然に乾燥していくに任せた方法だそうですが、しかし定着した布地には、明らかなイメージを感じるものが「描かれて」いました。
衝撃を受けたと言うのは、私が20代の頃にしていた銅板画制作において、最終的に辿り着いた作り方は、それは未完であったのですが、アルコールにアスファルト粉末を溶かして、銅板をカッティングシートで包んでバット状にして、溜めたその液体が蒸発して固まり腐食止めになりという方法だったのですが、そこで考えていたのは、ちょうどタルコフスキーの映画「惑星ソラリス」のように、無意識が惑星の物質と作用して、無意識世界が現前し、かつそれ自体が意識を持ち悩み苦しむ、という荒唐無稽な話ではあるのですが、そんな風に、無意識の作用で「描くこと」が出来ないだろうかという、途方もないものだったので、試行のうち、部分的な成功はあるのですが、銅板画故の大きさの限度や、大きさを得るための版のジョイントの問題が露呈して、断念というかバブル経済により仕事人間となり、制作自体からもフェードアウトしてしまった体験があったので、加賀城さんの作品において、それがほぼ成立していて、作品としての強度も伝わってきて、シンパシー以上の衝撃というか何か分からない感情になりました。
ここに至るにどれだけの試行と苦闘があったであろうか、想像を絶します。
前期の作品の表現形式の完成形とも思えるものと、後期もまた現代アートの優れた到達点と感じました。