みづえ1967年11月号を読む

バーチャンの透析が終わり、透析による身体障害者手帳交付受ける為に、区役所へ。今年に入って状態が悪くなり、1級のランクになっている。医療費は1ヶ月1000円を超える部分は公費負担となる。帰りに、古本屋覗くと、美術雑誌「みづえ」1967年11月号があり、福岡道雄先生の第二回現代彫刻展、K氏賞の作品が載っている。250円で購入。大阪万博の少し前の、高度成長期の活気にあふれた時代ですね。
「具体美術の15年」乾由明氏の論文も載っていて、興味深い。
僕の中での具体美術協会についての理解、「非決定論的な人間存在をメタ認知する装置としての無意識的な機械的決定論的方法」は、ものつくりとしての、詩的な、どちらかと言えば批判的な思いである。批判的に見ていても、研究してみる価値のあるものは、たくさんあるだろうとも思う。
最近、哲学者の東浩紀氏が彼のblogで、述べておられる、貨幣論は、アートの事ではないけれど、具体美術協会のことについて思う事と直感的に近いイメージを感じた。一部引用

解離的近代の二層構造論3より、一部引用
僕の「動物的原理」と「人間的原理」の二層化の提案は、このような議論の蓄積のうえに組み立てられている。動物的原理とは創発のことで、人間的原理とは否定神学のことだ。もういちど繰り返すが、貨幣は、経済主体が客体的−創発的−動物的原理に基づき、すなわち効用関数を所与の環境で最大化しようとしているだけでは生まれない。いや、正確にはそれでも生まれるのだが、生まれたときにはすでに、それぞれの主体に「未来の無限性」=否定神学が埋め込まれている。この意味において、貨幣は、人間の動物的原理と人間的原理の接点において考えられるべきものである。