展覧会ドラフト2011「TRANS COMPLEX−情報技術時代の絵画」

こころの未来研究センターさんで療育を終えて、帰路四条で降りて少し歩いて錦市場など散策してから京都芸術センターへ行きました。

展覧会ドラフト2011「TRANS COMPLEX−情報技術時代の絵画」
京都芸術センター
http://www.kac.or.jp/bi/560

昨年拝見した「公募 京都芸術センター2010」は、とてもユニークな作品に出会えたし、今回もとても楽しみにして行きました。
ただ、今回から少し公募の目的が変っているらしく、キュレーターの設定した課題に応じてアーティストを公募選定するというスタイルではなくて、展覧会の企画自体を公募選定するという新しい試みらしい。なおかつ今回の採択案は、キュレーター自身がアーティストらしく、関係はとても複雑になっている。二人が書いたテキストはA3サイズの紙の両面に別々に書かれていて、互いにシステム論を展開している。展覧会のパンフレットには、さらに審査員2名のテキストも載せられていて、作品を見る前にいろいろと情報が入る。何となくゴッホと彼を支援し続けた弟のテオ、そして二人の死後、作品や手紙を整理して、その後の評価へと結びつけたテオの妻、このようなつながりを同時多発的に俯瞰しつつ、展示してみたらどうなるか、みたいな試みであるかもしれない。
二人のアーティストのうち、村山悟郎さんがキュレーターを兼ねている様子。展示会場が南と北の展示室とで物理的に切り離されているので、一つの展覧会とも言えるし別々の展覧会のようでもある。具体的な展示物としてのカテゴリーは「絵画」という今も昔も変らぬテーマ。

最初に彦坂敏昭さんの作品から拝見。展示室のほぼ半分か1/3くらいの範囲に、ぽつぽつと置かれたタブローは、おそらくデジタル画像の変換を繰り返していって、原型を留めないまで繰り返したのちに、アーティストの感覚が関っている様子。
それは、例えば卵の殻を剥いていくときの、微細なクラックがとても美しく、それがある時、ランドスケープの生成システムと同一の原理で出来ていると感じられた時の、メタな感覚に近く、それらがちりばめられていて心地良い。
作者のテクストの「ルール」への介入を通じ、「システム」を偽装するとき、という言葉が少し難解で解釈も多様にあると思いますが、絵画という壮大な虚構作りのシステムとそれを支える事物との関係を考える時、偽装というのは適切な指摘と感じます。オリジナルなデジタル画像が原型を留めないほど変形が加えられていて、そうであるとネタばらしされないと分からない部分でもあるけれど、作品を支えるメタな循環構造が、そこで仮留めされていて、それ以上の循環を停止させる効果を産んでいるようにも感じる。最近の所謂ゴミアートにも底通するような、一種のイメージロンダリングの手法とも感じる。作品を支える具体的な事物の根拠を、無限に循環させないで、そこで仮留めしてしまうような効果。
テキストに書かれている事が具体化できているか否かは別として、画面から伝わる、眼球運動を促す、EMDR的なセラピーにつながるような感覚は、作者の身体性を強く感じさせ、共感できました。

それから、村山悟郎さんの作品を拝見しました。
3点のタブロー。1点は展示室の壁の白いペンキ仕上のクロスをキャンバス地にして、直接そこへ薄い下書きの後に彩色された網目状のもの。あと2点は、キャンバス自体を粗く太い糸で編まれて、あちこちから引っ張って螺旋状のように、何かの微生物のような形に作られたものに、白いベースの樹脂のようなものが塗られて地となり、でも荒い太い糸はあちこちにはみ出て、形を与えられて、グランドのようなフィギュアのような曖昧なものとなっている。
作品を見ながら、僕は随分前にTVで見た、具体美術協会のアーティスト、白髪一雄さんのロープにぶらさがって、足で絵具を攪拌していく方法を思い出していた。それを見ながらの僕の関心は、どのようにタブローを生成していくのかというよりも、むしろどうやって停止するのか、作品とは何をもって完成とするのか(誰がそれを決定するのか)という点にあったと思う。おそらく、具体美術的な方法は、無限に生成されていくような非決定論的な方法自体ではなく、それらを支えているかのような、決定論的な、未来への無限性を担保するような仮想の次元の、観客との共有にあったのではと感じるところがある。共有できた瞬間がその作品の完成の時であり、システム化の完成でもあるような。
そのような共有感は、大袈裟に言えば、貨幣の交換可能性の担保と類似した、事物の還元可能性に通じるものでもあるだろう。でも実際にはそのような透明性は幻想でしかないはずだ。そのような幻想を根拠に立つ事のできるのがアートでもある。