現代芸術への誘い COCA編を読む

昨日、帰宅時に駅の古本屋さん覗くと、またユニークな本を見つけた。タイトルだけを見ると平凡な教科書的なものに思えるが、関西の戦後以降のアーティスト達の講演記録集であった。具体美術協会の主要なメンバーの白髪一雄氏や、僕が敬愛する福岡道雄さんなど、ユニークな方ばかり。生で聞きたかったな。600円で購入
白髪一雄氏のページは特に興味深い。具体美術協会以前の活動で、仲間と一緒に「0会」というのを作って、戦後間もない1949年に心斎橋のそごう百貨店のショーウインドー借りてグループ展を開かれたそうだ。足で描く手法に到るプロセスも面白いが、まったく無名のアーティスト達に、展覧会の場を提供した、百貨店の心意気に、時代の雰囲気が伝わる。
具体美術協会的な方法に対しては僕は批判的な見方をしているけれど、関西人故か、心惹かれるところがあり、不思議だ。

現代芸術への誘い

現代芸術への誘い

 

偶然性と決定論的世界の融合について、考える手掛かりとして、具体美術協会の方法について、白髪一雄氏の方法を批判的に考えた、20代の頃に記したテキスト転載してみる。おそらく、当時、自分なりに分析した、具体美術的な、方法によって作品が完成する瞬間は、先日の東浩紀氏のテキストにあったような、「未来の無限性」のようなものを形成し、共有するところにあったんだろうと思う。それをいかに批判的に、違った方法で作る事ができるのか、そんな事を考えていたような気がする。

O君との二人展  1987.06.22〜27 信濃橋画廊
二人展を終えて得られた様々なimageについて

「作品はどの時点で完成とするのか? 何をもって完成とするのか?」

地階で同時期に行われていた『吉原治良賞の6人展』をきっかけとして、「具体」(具体美術協会)というグル−プの活動について少し思った事があります。具体についての知識はわずかであり、それは一つだけ数年前にグル−プのメンバ−の白髪一夫という方の展覧会のTVでの紹介の中で白髪氏の制作風景を見た事だけです。タ−ザンのようにロ−プからぶら下がる作者は絵の具を自分の素足でロ−プの振動によって攪拌を始める……・

どの時点で止めるのだろうかという素朴な興味に対してTVは最後まで映しだした。作者は振動を止め、画面から向かって左隅のキャンバスに足で踏みつけるように何かを描かれた。作者は機械的な振動だけでは絵画としての作品はもう作り得ないと主張するかのように。それらはTVでの制作風景として分かる事であり、停止した結果として残された作品のみからは分からない内容ではある。それを見た印象としては、「具体」の人々の初期のimageの中には偶然性を重視する精神よりもむしろ漠然とした「機械」的な現象を重視する精神、人間の感性を超えたものを生み出すのではないかと期待させる「機械」的な現象の、過去の作品群に対しての新鮮な驚きのようなものがあり、人間の感覚的なヴィジョンを相対化する装置として「機械」を概念化していたのではないだろうか? そこには「機械」との対話は無い。現代の身近な「機械」に対するimageは、人間の感覚を相対化するような装置としてよりはむしろ人間に同化し、順化するような、人間の心の働きとの類似性をこそ感ずる。人間の精神の自由(相対性)を立証するものとしての「機械」のimageから精神の自由を実現していくための「機械」のimageへの移行があると思う。日常的に「機械」との対話があり、それは現代人にとって不可避であり、かつ偶然性(最も人間らしいもの)に対する新たな視線を生む機会でもあると思う。

偶然性の尊重と「機械」との対話を通じて作品の完成というテ−マについて考えていけばいくほど停止する、完成する行為が先送りされていく不安はあります。

O君の友人の若い教師の方との対話から少し、その問題について考えていく道が見えたような気がします。

Q:若い教師の方 ――― 自分はさまざまな素材や手法を使って作品を作っていますが、あなたはは何故銅板画を続けているのですか?

A:―― 銅板画(版画一般の意と思って下さい)は作品に対してク−ルになれる。絵画の場合アナロ−グ的に最初から最後まで作品と付き合う事となる。銅板画の場合、製版はアナロ−グ的であるけれども刷り上がる時は実にデジタル的である(アナロ−グ的に変化していくもののある瞬間の状態を見せてくれるという意味においてであって記号表現としての意味ではない)製版の作業と作品と異なったものとして取り組めるところが好きだから(ずっと続けているのです)

二人展が終わった後でこの対話を思い出してみて、版画の特性として、デジタル性+アナロ−グ性という性質を再認識する事が出来た。さらに付け加えるならば物質性を持っている事、これは重要である。
様々なCGやパソコン等は(デジタル+アナロ−グ)という2要素は備えているが物質性は持っていない。(中にはCG上で描いた立体を工作機械と連動し三次元的に立体として作り出す作家もいるが、過去の機械との結合という感じを受けるのみであり、本質的に新しいものではないと思う)
CGやパソコンはデジタル入力であるからimageは可逆的である。版画の場合は不可逆的であり、製版が進めば原imageは保持しているが、元に帰る事は出来ない。                     1987.07.11  

昨日、深夜2時頃まで、仕事したり、日記書いていたりしていたら、急に物凄いものが焦げるような臭いがしてきて、窓を開けると、煙で周りが見えなくなっていた。「うちか?隣か?」とあわてて1階に降りて、外に出ると、すぐ近くの新聞屋さんだった。チケットとかよく頂いた事もあるし心配だ。