大寺俊紀・乙うたろう「やわらかな脊椎」展

大寺俊紀・乙うたろう「やわらかな脊椎」展
http://cas.or.jp/
casのwebより引用

素晴らしい展示、最終日にキュレーターの長谷川新さんのトークショーあるようなので、何とか時間作って行きたいですね。
今回の展示のステイトメントに、信仰のことが書かれていて、私は無信仰ですが考えさせられる企画とそれに答える優れた作品群と感じます。
信仰と抽象的なアートは、ともに純粋な世界を志向しているし、とても親い関係にあるのでしょう。しかし信仰の世界のみを記述することは難しい作業であると感じますが、アートを介して考え記述していくことは、そこにブレイクスルーな回路を生むのかもしれないですね。
信仰の場における信仰対象との向き合い方はある意味で強制的な権力的とも感じるような強い軸のある空間に閉じられる。そこで体験されるイメージは、多くの信者によって共有されるある意味での不変項のようなものかもしれない。
最近たくさん開催されている仏像展では、そのような強い軸のあるバイアスの掛かった関係を解きほぐす目的なのか、仏像の周囲を自由に辿り、バイアスのある関係では見ることのできない背面であったりを、リアルに見ることができる設えとしているケースが多い。でもそれらを体験しても、バイアスの掛かった関係において見えてくる不変項を、補強するだけではないのかと思える。
今回のお二人の展示を拝見して、そのバイアスの掛かった関係の中で、かつ不変項ではない、イメージが体験者においてそれぞれに発生しているような感じがしました。

乙うたろうさんの壺に描かれたキャラクターの顔のイメージは、最初に見つめるポイントから、次なる視点への移動が滑らかにすべるようで、かつまったくの体験者のフリーな視点移動でもなく、まるでアシスト自転車でペダルを漕ぐ、漕ぎ始めのように、描かれたイメージが体験者を誘導するようだ。
台座のような白い四角い厚紙が展示室の軸と少しずつどれもずれていて、かつ観るものに応答しているが、intimate(親密な)な関係を拒んでいる。










大寺さんの抽象絵画も、表面から浸透することのない、明確な形態が同様に動き連結を始めアシストする。絵画のフレームは乙うたろうさんの作品とは対照的に展示室にフィットしていて、絵画の内部でずれて視覚認知をアシストしている。
組み立て式のオブジェでは展示室の軸とずれていて、ここに乙うたろうさんのイメージが描かれていても、成立すると感じます。(内包される空間は畳んでしまえば、元の空間に戻る)




信仰の場とある意味での決定論的カオスとが親和的であり得ることを指し示す証左のようで、立ち尽くしてしまった。