鮫島ゆい「5時の点は白と黒」展

午後、西九条へ出て、the three konohanaさんへ行きました。

Konohana’s Eye #11 
鮫島ゆい 「5時の点は白と黒」展
http://thethree.net/exhibitions/3314

2年前に初めて鮫島さんの作品を拝見した時も、なかなか理解が難しく、再訪して、鮫島さんに直接お聞きして、という感じでしたが、今日も同様に再訪して、鮫島さんに直接お聞きしてみました。

2月14日の最初に観た時のメモ

前回の作品の印象から、かなり変化されているとも感じますし、昨年2KWギャラリーで数点拝見した印象の、さらに変容したようなイメージもあるようです。
2年前の個展の感想に私は次のように書いていました。

http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20140329/art
『タブローの中に、リアリティを、そして強度を出す為に、偶然性の要素を持ち込まないで、描く行為のみで、決定論的世界を超えるには、おそらく立体物に表出したイメージを、延々と描き続けること、そしてその迷宮的な描かれたイメージの、離散的ともいえる変化のベクトル=指向性のなかに、見出される可能性があるのかもしれない』

また、昨年の2KWギャラリーのグループ展の感想には次のように書いていました。

http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20150223/art
『ちょっとユーモラスな人を抱擁するような雰囲気にも感じるドラムスティックの造形と絵画の中の、虚像としてのドラムスティックとが動かないけれど、動的な関係に置かれていました。ここでも没入していくことと、メタな視点とが同時にあるような、浮遊感がありました』

最近、私が興味を持って考えている、「触覚(皮膚感覚)/言語」的なイメージと照合していくと、何か手懸りがあるのかもしれないと思います。
「触覚(皮膚感覚)/言語」的なイメージを獲得するヒントになった、資生堂の傳田 光洋さんの「皮膚感覚は自己意識をつくっている」というテキストには、驚くような皮膚感覚にまつわる研究内容が記されています。

「皮膚感覚は自己意識をつくっている」
http://kangaeruakari.jp/2015/10/3040/
『皮膚感覚は、私と環境、私と世界を区別する役割を担っています。では皮膚感覚がなくなったら、他者と自己の区別、つまり自己意識はどうなるのでしょうか?(中略)リリー博士は、アイソレーションタンクのなかで、自我が抜け出して、隣の部屋にひゅーと移動し、さらには地球の外まで行ってしまったと』

ハグマシーンのような皮膚感覚に圧を掛けることの逆に、特殊な装置の中で、皮膚感覚を失うと、幽体離脱のような体験をするという。
鮫島さんのタブローを観ていて、どこに視点があるのか不明な、無意識の瞬間のような印象がありますし、皮膚感覚をゼロ化する行為の延長上に絵画を描くことが結び付いているのだろうかと推測しました。
それと、同時に、昨日参加した今村源さんの針金で自己像を作るワークショップで、今村さんが語っておられた、ワイヤーフレームのような線だけで構成された顔(ジャコメッティはモデルも用いながらも、正対の特定の一点からしかモデルを見ないで、造形したという逸話)と、ワークショップでの参加者の造形物が、視線を変えてワイヤーフレームを観た時の、顔に見えない、何ものかよく分らない形態の瞬間のような視点の、意識的無意識的な、かつ浮遊するような一瞬の視点がイメージされているのかもしれません。
しかし、でもよく分らないところがありますね。やはり再訪必要。

3月19日に観たあとの追記。

今回の作品にも浮遊感を感じました。特に、奥の部屋の手前に展示されていた、画面全体に格子のようなパターンが描かれた作品を観た時にそれを強く感じました。
山中さんにお聞きすると、それは具体的な光景を描いた作品であると(シャワールームのタイルに写った光景)
画面を観ていると、作者の視点(同時に観ている人の視点)がどこにあるのかが、分らなくなってきます。
描かれている曖昧な具体物なのか、具体物含めた写りこむ鏡像全体なのか、鏡面としてのタイル面なのか、もしくは描かれた物質としての画面なのか。そして、そのような光景が他の大きな画面の作品にコラージュされていて、視点の構造がさらに多様に複雑化されている。
鮫島さんに、視点はどこにとお聞きすると、描いている自分自身を含めて見ているような、と。
また、今回も立体と二次元平面作品とが同時に展示されていて、その関係については、シュルレアリスムの自動筆記的な方法であると。
作品相互の連動性については、直接的ではないが、並置された作品の、点や線の位置を意識的に揃えている等。
お話を伺いながら徐々に、言葉による理解と目の前の絵画とがフィットし始め、動き出すような感覚を覚えました。同時に、2KWギャラリーの作品にも感じていたユーモラスなイメージが伝わってきます。
この感覚は何だろうと思っていて、後日、偶然中古本屋さんで手掛かりになる記述のある本を見つけました。

柄谷行人著「ヒューモアとしての唯物論

フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分自身をメタレベルから見下ろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己を-時には(三島由紀夫のように)死を賭しても-蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーが他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。

前回の個展の際にメモしていた、『タブローの中に、リアリティを、そして強度を出す為に、偶然性の要素を持ち込まないで、描く行為のみで、決定論的世界を超えるには、おそらく立体物に表出したイメージを、延々と描き続けること、そしてその迷宮的な描かれたイメージの、離散的ともいえる変化のベクトル=指向性のなかに、見出される可能性があるのかもしれない』について、何故、絵画なのかという根源的な問い(例えば映像技術革新の時代に生まれたデュシャンが何故、動画作品を作らず、絵画やオブジェのような静止したアートを制作したのかという疑問と同様に)を感じていたのですが、その疑問に対して、今回の展示作品は示唆的であると感じます。
鮫島さんは、残像(山中さんの解説テキストから)を意識されている。
それは、リアリティの有り過ぎる立体と、虚像としての平面と、それらを繋ぐものとしての、残像=唯物(人間の感覚能力では分離固定困難なほど早い瞬間的なイメージ世界)へと接続する新たな試みなのかもしれません。