第4回障害とアート研究会 〈異なる身体〉の交感可能性〜コンテンポラリー・ダンス を手がかりに
夜7時からの研究会に参加してきました。
前回7月8日の研究会(話題提供者:岸中聡子さん)http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20080708/artで話し合われた、障害者のアートでの援助者の関わりと共同性というテーマは、障害者個々人の個性や主体性を巡ってやや分裂したような議論になってしまったように感じたし、自分の頭の中でも整理がつかなくて、たくさんメモは採ったけれど整理して言葉にすることができないまま、数ヶ月過ぎてしまった。
今日の渡邉さんのお話は、コンテンポラリーダンスという僕は普段あまり接する機会の少ないジャンルのお話でもあり、説明されるアーティストやダンサーの名前もほとんど分かりませんでしたが、タイトルの「(異なる身体)の交感可能性」というコンセプトを手掛かりに聴いているうちに、前回分裂してしまった考えがなめらかに繋がるような手掛かりを得る事ができるように感じました。
赤ちゃんの無垢な共鳴動作のような言葉に頼らないコミュニケーションにちからを感じることから、「身体=個別性と共同性が同時に絡み合ったもの」とする考えはとても普遍的なもので、かつ様々な分裂したものをつなぐちからでもあると感じました。
渡邉さんが過去に経験されてきた、施設での出来事のお話で、障害者達の間合いの異常な近さや遠さの感覚や、障害者同士では協調して一緒に机を運ぶといった作業ができない等、自分の体の範囲を想定しにくいのでは、と直観的に感じられた事は、知的障害者の視覚認知における自己中心座標のふらつきの問題として、最近気になってアーチャンのprader-willi症候群など関連調べているところであったので、とてもリアルな内容として聞いていました。彼らが様々なコミュニケーションする上での困難さを抱えていて、それらを理解していく、手助けしていく視線は強い観察力が要請されるところですね。それでも彼らはうまくコミュニケーションが行かなかったり、距離感がうまく取れなくて頻繁にぶつかったりして、ストレスを貯めている。言語的なコミュニケーションの弱さを身体的な身振り等もまた補っては居ないという指摘はとても参考になりました。
後半のディスカッションのところで、障害と舞踏はどうつながるのか?という質疑があり、古典的なものを壊して新しいものを作り出す時、ダンサーとだけでは作れない、障害者の存在感の強度や身体のリアリティや新しい動きに惹き付けられるところがあるとの回答に、要するに新しいダンスを障害者と共に交流して作り出すという事ですねと再度聞かれて、それはアーティストの立場であり、渡邉さん自身は、コミュニケーションに重点を置いた交感自体がおもしろいので、舞台化しなくても良いと考えているとの事。
大学の先生から、では渡邉さん自身は何をされたいのか、と聞かれ、答えとして、今ここを確認する作業ができなければ未来も無いと感じるし、今ここを確認する作業がコンテンポラリーダンスのワークショップや舞台への感心に繋がっている等、回答は曖昧ともとれるお話でしたが、強度を持った曖昧さという印象でした。
今ここの確認もある意味で超越した視点が必要であるし、知的障害者にとってそのようなメタな認知能力の獲得が最も困難なところと娘のアーチャンの成長を見ながらそう感じるし、逆にそのような視点を獲得することが困難であるところが、この子達への無限の愛のようなものを感じるところでもあるなと帰路橋を渡りながら空想した。
〈異なる身体〉の交感可能性〜コンテンポラリー・ダンス を手がかりに
日時:11月12日(水)19:00〜21:00
場所:京阪電車なにわ橋駅 アートエリアB1(ビーワン)
話題提供者:渡邉あい子
立命館大学大学院 一貫性博士課程 先端総合学術研究科公共領域4年
http://popo.or.jp/ableart/news/cat111/4.html
財団法人たんぽぽの家のHPより「医学モデル」に重きがおかれがちな、障害者の身体に対するあり方。けれど、パフォーミング・アーツという土台に乗ったとき、「(治療的)効果」という視点は中心から外れます。障害への「配慮(ケア)」ではなく、障害をもって生きる身体:存在としての身体との「出会い」への転換。感受し呼応し合うといったコミュニケーションの土俵を身体として捉え、ダンスにおける身体観の変化を、コンテンポラリー・ダンスのワークショップをてがかりに考察します。
下記は渡邉さんの参加されている活動に関してのテキストです(転載許諾済み)
パフォーミングアーツを通じた「場」の生成
<めくるめく紙芝居>という試み
第22回日本地域福祉学会大会 於:同志社大学
http://www.arsvi.com/2000/0806wa.htm