養老孟司+茂木健一郎著「スルメを見てイカがわかるか?」を読む

奇妙なタイトルであるが、養老先生とSONYクオリアシリーズのコンセプトをコンサルティングされている認知科学者の茂木さんのマシンガントークは面白いです。http://6013.teacup.com/kenmogi/bbs
養老先生のコメントから一部引用

「いない」ことは証明できるか
養老 「内・外」と「いる・いない」の話に戻りましょう。筑波山とアゲハチョウを例にとって考えてみます。「筑波山にアゲハチョウがいる」という話はたいていの人は納得するんですよ。標本1匹持ってきても納得する。非常にいい加減な納得ともいえるんですが、ともかくそこで問題なくなるんですよ。だけど、「筑波山にアゲハチョウがいない」というのは途端に問題が起こるんですね。普通の人の中でもそうです。そんなはずはないという話になる。「お前の蝶の採り方が下手だ」とか、そんな話になってくる。
それじゃあ、筑波山にアゲハチョウがいない、ということを証明するために僕はなにをしなければならないかというと、しかたがないから筑波山に行って(中略)しらみつぶしに調べて、卵もなければ幼虫もいない、(中略)・・・とやらなければならないんです。でも、それは完全に誤解なんですよね。どこに誤解があるかというと。「筑波山にアゲハチョウが・・」と言ったとき、そこまでの文脈の中に、聞いている人の頭の中には、筑波山とアゲハチョウのそれこそイデアが浮かんでいるわけですよ。そのような準備ができた時に、「いる」という話は一切矛盾が生じないんですよ。
でも「いない」と言った瞬間に、頭の中にできたイデアをどうしてくれるんだということになる。「いない」の証明はできないけど、「いる」の証明は簡単だというのはそのことです。(後略)

これを読んでいて、娘が生まれてPWSの告知を受けた頃の事、思い出しました。ネットとかで情報調べると当時の情報ではPWSには出産能力が「ない」という感じの記載しかなかった。紹介してもらったPWSの経験豊富という医師に尋ねても「PWSは絶対受精しません」と断言されてしまった。僕はその時、「そんなはずはない、片方の遺伝子もインプリントされてるだけで、存在するから、生き延びようとするはずだ」と意見すると、大説教くらってしまい、その先生の受診は、その1回でお断りした経験がある。
養老先生のコメントは、その時の僕の気分に限りなく近いと感じる。うまく説明できないけれど、それは願望ではなく「論理矛盾」に対する受け入れ難さのように思いました。よく子供の現実だけをみつめてあげなさい、というアドバイスを僕のような感じの人間は受けるのですが、いつも当惑してしまいますね。では現実を見るための志向性(感覚に与える様々な解釈)は、どうやって獲得するのか?という視点が欠けていると思う。

茂木健一郎さんの講義録が聞けます。感覚的クオリアと志向的クオリアの説明も出てきます。(転載許諾済み)
文化服装学院における講演「クオリアを着ること」Wearing the qualia
http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html
講義録はこちらです。
http://www.qualia.csl.sony.co.jp/~kenmogi/lectures/qualiafashion20031217.MP3