梅田恭子 銅版画集「ツブノヒトツヒトツ」全12章展 -第5回- 9章『呼吸式』・10章『オフィーリア』

国立国際美術館を出て、なんばへ行き、天音堂さんの梅田恭子展見てきました。
少し前に展示されていた、蜜蝋画のシリーズが、辺見庸著「自分自身への審問」角川文庫刊の表紙に、銅板画が挿絵に使われていました。

自分自身への審問 (角川文庫)

自分自身への審問 (角川文庫)

僕的には、この蜜蝋画のイメージが梅田さんの世界に最も親しい感じがしますし、会場に備えてある虫眼鏡で覗いた時の、極微の世界が広がる面白さも、これが一番フィットしていたと思います。本の表紙としてもインパクトあります。
でも、これは銅板画を作る面白さを一度体験すると、共有できる感覚なのかもしれませんが、反転のプロセスや、腐食等とにかく銅板画にはノイズが多くて、うまくコントロールできなくて、そこのところと、明解に押えているところとが、水の中の氷のように、なめらかに繋がっているようで、そこのところへの態度が、銅板画を主表現とされているポイントのひとつではないかなと推測します。これは僕自身の思いでもありますが。
今回の作品で気になったのは、文字が分解して宙に浮いているような表現のものと、前回までの、物質的なものの流れに仮託したようなイメージとが混ざり合っているところでした。スケールがはっきりすることで、そのものの存在が明解になるものと、相対的なスケールが無くても伝わるもの。
虫眼鏡を備える事で、それを覗く事で見えてくる極微の世界。そのようなスケール依存の無いような世界でも、自動生成的に生じた世界に意味や形やイメージが不可避的に浮かびはじめ、受け取ってしまうように。大きさの根源のようなものは、やはり相対的な関係性の中で生じていて、文字や言語だけが人間にとって特異な存在であり続けているような印象ですね。

梅田恭子 銅版画集「ツブノヒトツヒトツ」全12章展 -第5回- 9章『呼吸式』・10章『オフィーリア』
天音堂のホームページより引用
http://amanedo.exblog.jp/

帰り際、また梅田さんから、作品を小さくカットしたシオリをいただきました。アーチャンどれにするか悩んでから選んで大喜びでした。シリーズは次回11月後半にもまた開催されるそうです。また来訪したいと思います。