プラド美術館展を観る

新聞屋さんから無料チケットいただいたので、知人のpurimariさん誘って、天王寺大阪市立美術館にて、プラド美術館展を観る。
僕のお目当ては、もちろんファン・カレーニョ・デ・ミランダさんの作品だ。このblogでも、繰り返し書き込んだけれど、17世紀の宮廷画家のミランダさんが描いた5歳の少女の肖像画が、現在では娘と同じprader-willi症候群児ではないかとされている。

僕のblogで、資料のリンク先が概ねまとまっているのは、下記です。
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20051204/art
(カテゴリーの「Eugenia Martinez Vallejo」をクリックされても、いくつか情報がでてきます)

残念ながら今回の展覧会では、その肖像画は展示されておらず、ロシアの皇帝の大きな肖像画一枚だけであった。
最初に展覧会開催された東京都美術館と、プラド美術館双方に、その少女の肖像画の展示を御願いしてみたけれど、東京都美術館からは返事も無く、プラド美術館からは丁寧な返事をいただいたけれど、結局願いは通じなかった。
プラド美術館展で、ミランダさん目的に見に行く人は、おそらく僕一人だけではないだろうか、と思う。
prader-willi症候群児ではないかとされる少女の肖像画の事を知って、画像を検索したり、情報を入手していきながら、少しづつ、このミランダさん自身への興味も増してきた。おそらく、ものすごく観察眼の優れた方なんだろうと想像する。少女の肖像画のうち、着衣のものは、左手を上に挙げて果物を持っている。概ね肖像画のスタイルとして、右手を優位に描く事が多いように感じるが、おそらくミランダさんは、少女を観察していて、両手が利き手であることに気づいたのではないかなと想像する。
アーチャンも、利き手は主に右手であるが、時々左手も、普通に使ったりしている。幼児期に脳に障害を受けると、左手優位になる場合があると専門家の方からお聞きした事があるけれど、おそらく、そのような特徴をミランダさんは見ていたんではないかなと想像していた。
今回の展示作品のロシアの皇帝の肖像画も、とても印象的な作品でした。多くの肖像画が、視線を正対しないように少し対角に外して描かれるけれど、この肖像画では、こちらに視線をじっと向けていて、絵画であることを忘れて、誰かが本当にそこに居るような気持ちにさせられる。おそらく描かれた皇帝自身がそのように、じっとミランダさんのことを見つめていたんだろうなと空想した。
この絵一枚だけでは、ミランダさんの絵の世界はまだ充分には伝わらないし、もう何点か見たかったですね。またカタログなどを見ても、PWSの少女の肖像画の事等についても一切記述されておらず、それは評論家の考えでされている事だから、仕方ありませんが、今回の展示物だけでは、ミランダさんというユニークな作家のことは、うまく伝わらないだろうなと感じます。
いずれ、プラド美術館へ行って、実物を堪能したいと思いました。
その他の作家達の作品も、秀作が多く楽しめましたが、僕の好きなゴヤは、点数はたくさんありましたが、あまり印象的な作品は無く、少し残念な感じでしたね。
いつもこのような感じの展覧会の時に思うけれど、レプリカで良いから、その作家の中核的な作品を展覧会として構成して展示して欲しいなと思いますね。その展覧会での作品との出会いが、その作家との最初で最後の出会い、という人が大半でしょうし。
僕が最初に展覧会として意識して見たものは、もう随分前の中学三年生の時に京都で開催されたゴヤの大掛かりな展覧会でしたが、そこには、例の黒い絵がレプリカでしたが、部屋ごと再現されていて、相当なインパクトを感じた事、今でも鮮明に覚えていますね。
オリジナル信仰から、もっと自由で良いはずと僕は思うし、その方が幅広くアートに触れる事ができると思う。
今回のゴヤの作品中、初期のまだタペストリーの下絵作家であった頃の作品にしても、何枚かの連作の一枚であると表示されているが、そうであれば、連作を並べた状態を、何ならかの形でイメージできるような構成も考えて良いだろう。
美術館の採算問題がよく言われるが、名画をただ並べるだけの展示で来場者が増えるはずも無く、僕が中学生の時にゴヤ展で感じた印象的なレプリカ展示のような工夫から、一歩の進歩もしていないか、むしろ後退しているんではないかなとすら感じる時がある。
僕の心からのメールに対して、丁寧な返事をかいてくださったプラド美術館と、返事をくださらなかった、日本の美術館との対応の差(おそらくミランダさんとPWSについて、相関関係が浮かばないで、単なる変なメールが来た、くらいの受け取り方であったのか分らないが)からも、その差は、とても大きなものがあると感じる。