迫鉄平個展 Made of stone

夕方、帰路、阿倍野に出て新福寿荘のアートスペースジューソーさんへ行き、迫鉄平個展 Made of stoneを観ました。
迫鉄平さんのことは、まったく知らないアーティストでしたが、会場に迫さん居られ、谷川さんと共に様々なお話が聞けて、理解が深まりました。

迫鉄平個展 Made of stone
http://www.artspace13.com/
アートスペースジューソー

作品は会場奥の大きなスクリーンに映し出される短い時間の様々な動画作品(カメラを定点風に構えて撮影したものがほとんどで、ところどころ、カメラ自体が動くもの、定点風な視点が途中から動き出すものなど混在していました)と、ドローイングのスケッチ帖を他人がめくっていく場面を動画で撮影したものと、スチール写真を複数のモニターで機械的に送って映し出しているものと、3種類ありました。
動画作品を見つめていて、6年程前、remoの甲斐さんが大阪に居られた頃に開催された、天王寺動物園でのremoscopeのワークショップの感じを思い出していました。

ブログ記録から
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20081130/workshop
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20081203/workshop
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20081208/workshop

remoscopeとは、下記のようなルールで動画撮影するものでした。
1、最長1分間
2、固定カメラ
3、無音
4、ズーム無し
5、無編集
6、無加工

remoscope
http://www.remoscope.net

このワークショップではアーチャンが撮りたいものを撮ろうとしたのですが、その時に得られた映像から、アーチャンがピクピク動くものへ興味を示しているのでは?との甲斐さんから指摘があり、それがその後の、眼球運動通じてのEMDR的なセラピーを知るきっかけになったと思っています。
remoscopeのような固定的な視点で動画を撮ると、今日拝見した迫鉄平さんの作品もそうでしたが、興味の対象を見ている意識から、繰り返しいくつか見ていくと、対象よりもむしろ、固定的な視点というのか、強いフレームのようなものを感じていることの方へ意識がスライドしていくような感覚がありますね。
それと同時に、人は何故か、動画を、動画の内容によらず、本能的とも言えるような反応で見てしまう、見つめてしまう事にも気付きます。
絵画含めての静止画に対しては、人は動画のそれのような強い指向性を感じないし、見つめてしまう度も薄いと思う。
ただ、私のように、絵画的なもの含めて静止画を指向性持って見つめてしまう、凝視してしまうことの多いものにとって、それは何故だろうと思う事があり、最近、それはむしろ、絵画含めての静止画というものが、感覚の世界的には無いのではと思い始めていて、それ故に静止画も動画と同様に凝視してしまう、見つめてしまうのではと。
もう一つの、ドローイング作品を他者がめくっていくところの映像作品の、表紙や中のページに散見されるデュシャンへの直接的なオマージュのようなドローイングを見ていて、この数年、ずっとデュシャンについて興味を持って、アート作品を見た時に常にデュシャンのことを参照し、現在のアート作品の中にその影響、残響を感じていたし、最近ある程度、デュシャンに対する理解にまとまりが出来たというか、理解が深まったと感じていたので、とてもタイムリーというのか、興味深く見つめました。
デュシャンが創作活動を始めた1910年代、おそらく物と情報が膨大に溢れ始めた時代であっただろうし、そのことの人間の感覚への影響は凄まじいものがあったに違いないと思う。
「人は生き延びる為に、意識は世界を瞬間的に断片化して捉え、無意識はそれを緩慢に結合していく」
そんな風な理解が私にはありますが、おそらくデュシャンが生きた時代において、そのバランスが物と情報の洪水によって、崩壊する危機に見舞われた最初の人々であったのかも知れません。(大ガラスの創作も詩人のアポリネール夫妻とのドライブ旅行から始まっている)
それ故に無意識世界の探求、クリニックの発展が要請されたのではと。
デュシャンはいち早く、アートのちからによって、その危機を、いかにもスマートに切り抜けるメタな視点を獲得したのではないかと思います。
デュシャンの、それまでの自身の作品群の縮小モデルのようなボックスが、彼自身の作品群をメタな視点で捉え直すユニークな構造になっていて、そこが従来のアーティストと一線を越えているところでしょうし、現代アートロールモデルのようにも感じます。
迫鉄平さんのドローイングを他者がめくる映像作品にも、強くそのようなメタな視点の要請を感じました。
同時にドローイングに現われる人間の顔とランドスケープ的なものとの混在感が心地良い。

私がライフテーマのように考えている「顔/カオス」的世界に親しいものを感じるし、顔があることで、果ても無い世界が不安でない、そのようなイメージが直接的に描かれているようでもある。
展覧会のパンフレットの表紙の、何気ないアパートの風景の前の顔画像を持つ手の挿入のイメージに、顔がスケールを超えて浮遊している。

帰宅後、改めて、迫さんの作品をネットで検索して、それがある有名な殺人事件の現場写真であることを知りました。おそらく、その情報を知ってこの作品を見る人は、そんなに多くは無いだろう。知らずに観たイメージは、私の「顔/カオス」的世界観に当てはめてみれば、私的には不安の無い世界のイメージであるが、事件の現場であることを事前に知ってこの作品を見た時に同様のイメージを感じたか否か、それは分らない。

デュシャンの時代の物と情報の洪水と較べて、比較にならない程さらに大量の情報が瞬時に行き交う現代で、日々そのような大量の情報に晒されている私達が生き延びるスキルを、試行しているのであろうか。