「ノスタルジー&ファンタジー 現代美術の想像力とその源泉」

アーチャンお迎えの帰路、国立国際美術館に寄り、「ノスタルジー&ファンタジー 現代美術の想像力とその源泉」展を見ました。

「ノスタルジー&ファンタジー 現代美術の想像力とその源泉」
http://www.nmao.go.jp/exhibition/index.html
国立国際美術館より引用

2時15分下校で夕方まで長いので立寄ったということもあり、11名のアーティストの作品をじっくり集中して見つめる事はできませんでしたので、個々の作品についての判断はせず、ただ見つめて記憶するような感じで廻りました。
1日経って、思い返しつつ感想を記してみる。
11名の作家のうち、既に知っていたのは、横尾忠則さん、淀川テクニックさん、北辻良央さんの3組でした。
入口直ぐの展示の北辻さんは、私の銅板画の先生の芝高康造さんの友人で、昔、何度か信濃橋画廊等での個展を教えていただいて拝見してたので、当時の記憶が蘇りました。過去に拝見した個展の時はどこも小さな会場でしたから、作品も小さな世界のものばかりでしたが、国立国際のスペースでは、その空間ボリュームに呼応するように、個々の作品間の距離が適度に置かれ密度の高い展示になっていました。作品個々の制作の丁寧さ精度や強度など、魅力的な作品群。
デュシャンへのオマージュのような回転する円盤とそれ越しに投影されるテトラポットの海岸の工事中の記録映像のような作品。動画はそれがどんな中身の無いものであっても、何故か人は無意識に動物的に見つめてしまう、最近そんな思いを強くしていますが、その思いを改めて再認識しました。
木の短い角棒を無数に繋げた原寸大の馬の像は、展示全体の構成のように、小さな断片を繋ぎ合わせることで、有機的な生命感を出しています。(アーチャンは別の素材、たぶん大理石みたいな、で造られた馬の目玉が印象的だった様子で、帰路、駅近くのガチャガチャで目玉のフィギュア購入していました)
木製の箱のいくつかのシリーズが壁面に並べられていて、アーチャンの参加した自動販売機の出品作品を連想。
箱は中に何が入っていようが、無かろうが、独特のイメージが出ますね。箱自体が特に何もしなくても、既に何らかの意味を憑依していて、置くだけでアート作品になるような印象があります。
中央の古材で作られた木造の小さな小屋の内部の壁には、バラの絵や人物の上半身の像が描かれたピースが天地逆にして貼り付けてありました。
小さいけれど、家というのか、建築のスタイルも、言わば箱的な要素を同様に纏っていて、これも置かれるだけで、様々なイメージや意味を生成していて、箱から家的なものへの、スケールの断絶と、意味やイメージの生成の機能の連続感が面白かったですね。
次の部屋の柄澤齊さんは、小口木版画で有名な方らしいが、今回は違う表現方法でした。北辻さん、この方と、技法的にクオリティの高い方をまず見せてという展示コンセプトなのかもしれません。
デカルコマニー的な描画に様々な神話的な題材のイメージが描かれていました。
それと部屋の中央に、銅板画のドライポイントによる樹木のある黒一色の風景画の小品が長いケースに入れられて展示されていました。私が通っていた銅板画工房に駒井哲郎さんのエッチング作品のアーティストプルーフ(エディション外の作家持ちの作品)が飾られていて、柄澤さんのドライポイントの作品がそのイメージを思い出させてくれました。でも、駒井哲郎作品等の、そのような最高レベルのクオリティのエッチングを既に見てきたものとしては、今日のドライポイント作品はあまり評価できる印象ではありませんでした。厳しい意見かもしれませんが、これを見た人がその表現に感動して、アートや銅板画に興味を持つかと問われれば、私は疑問に感じるクオリティでした。
その点において、この展覧会の展示構成された方は、この時点で小さく躓いているとも感じます。
次の3番目の山本桂輔さん、4番目の小西紀行さんと続く、技法的な強度よりも、エモーショナルな部分を露出して激しく揺さぶってくるような作品との対比が、その後の展示構成でも、技法的に拘った強度の高い作品と、エモーショナルな作品とが交互に現われてきましたが、対比のインパクトが弱いように感じました。
展覧会のパンフレットの表紙に大きく掲示されている橋爪彩さんのスーパーリアリティな絵画も、写真のよさも絵画としての良さも、どちらも相殺しているような印象がありました。
最後の、淀川テクニックさんの作品は、以前淀川でのチヌの行進見に行ったこともあり、アーチャンもその時の、他のアーティストさんが作った焼き芋カーを、霊柩車と思い込んでいて、そのインパクトとともに、覚えているようでした。
淀川テクニックさんの作品には、以前から私の中には賛否両方あって、興味深いテーマを常に探求されているので、今日もどんな展開をされているのか、気になっていました。
淀川の廃棄物を使うという基本は踏襲されているのですが、大きな転換というのか、違いも感じました。
廃棄物を積み上げて出来た巨大な壁があり、しかし自立はしていなくて、背後にある白い新に構築された壁というのか、観客参加型で、中に入って、小さな窓を開けると、そのゴミの壁に顔を出した状態になり、表側から記念撮影ができるという仕掛けになっていました。
今までに拝見した作品群が、立体においては常に全て廃棄物で廃棄物によって自立した構造になっていたと記憶しますし、背景の白い新しい壁による支持は、有る意味で、ゴミを使った造形物にしか見えなくなっています。
他の作品も、小さなゴミを透明な樹脂に混ぜて、レンガサイズにしたキューブであったり、ゴミをフレームから吊って、マリオネットのように、特定のイメージのあるフィギュアにしてみたりと、フィギュアとそれを支える構造とが分離して、明確にされていました。
淀川テクニックさんの作品に感じていた、その素材の由来について、思考する無限後退のような苦しさから、淀川の廃棄物である、というある意味で、そのものの依って来る由来を、イメージロンダリングするかのような、自然の風化による同時的劣化のクオリティを全面に押し出すことで、根源的な世界について、考えなくて済むような、ゼロポイントの要請(それは幻想でしかない筈だけれど)が、この人だちの、作品の中核ではないかと。
そこに、私は賛否を感じていました(本当にそれで良いのかなという)が、今回の作品の変容が、その本質的な部分への問いにどう関わっているのか、については、まだ明確な言葉はつかめていません。
おそらく「ノスタルジー&ファンタジー 現代美術の想像力とその源泉」展のコンセプトである、ノスタルジーの世界とは、淀川テクニックが従来造り続けてきたような、『根源的な世界について、考えなくて済むような、ゼロポイントの要請(それは幻想でしかない筈)』のことではないだろうかと思うし、ファンタジーという、まだ誰も見たことの無い世界への思考も、そのゼロポイントを踏み台に、ジャンプするような、構図になっているのかもしれない。
淀川テクニックの、フィギュアとしてのゴミの扱いと、それを支える新たな素材による構造の混在の方法が、ゼロポイントの要請ではない、新しい可能性へのチャレンジであることを願いたい。