妻木良三「幻標」展

午後、此花区の梅香堂へ行き、妻木良三「幻標」展を見ました。
妻木さん在廊されていて、少し作品のことお聞きでき過去の鉛筆ドローイングも見せていただきました。

妻木良三「幻標」展
http://www.baikado.org/docs/home.html
梅香堂HPより

1階がモノクロの写真で、2階がカラー。強度のある薄いプレートと小さなサイズが印象的です。妻木さんの住まいの和歌山の海岸の景色等の断片的なもの。
以前に制作された鉛筆ドローイングの小さな丸い作品を妻木さんに見せていただきましたが、会場に置かれていた作品集も併せて眺めると、鳥瞰的な視線を感じるがスケールは曖昧な感じ。布の襞のようでもあり、ランドスケープのようでもある。
今回の写真作品は身近な海岸などのランドスケープで、おそらく私達にはそのような人間の視線によって切り取られる断片的な世界と、鉛筆ドローイングで表現されているような俯瞰的な、メタな視線と、その両方が欠かせないのだと思う。

写真作品と鉛筆ドローイングの両方を見ながら、僕はジョン・ミルトン著「失楽園」の挿絵(ジョン・マーティンのメゾチント)を思い出した。神話世界の遠い空から降りつける光と人間に近い世界に拡がる楽園のランドスケープとが混じり合っているような。

そんなことを妻木さんにお伝えすると、以前、鉛筆ドローイングの作品を逆さにして、仏教の教えにある本地垂迹(ほんじすいじゃく)の例えとして感じられた方が居られたというエピソードを、実際に鉛筆ドローイングの作品を逆さにしてお話してくださる。

妻木さんから本地垂迹に関して補足いただきました。

補足:「本地垂迹」は 仏教の「教え」ではありません。おそらく日本のある時代の仏教側の捉え方という感じでしょうか

自由連想的に僕の頭の中にはガウディがサクラダファミリアの塔の形態決めるのに天井から鎖を吊ってそれを床の鏡に映して、空から俯瞰しているかのような眺めの写真が浮かんできた。)
個人的には果てもなく続くランドスケープの中に顔的なイメージが並んでいるような、混じり合っているような世界が好きだし、ライフテーマのように「顔/カオス」とコンセプト作って考えてきたので、描かれた鉛筆ドローイングのなかにも、写真の中にも、顔的なイメージが立ち上がってくるので、その点についてお聞きして見たが、具体的な何かではなく、自分が良いと感じた形を描いているので、それが様々なイメージを見る人に感じさせることは有り得るし、現実の海岸の風景の中にも様々なイメージを感じられるから、意識して描くという事は無いとのこと。
妻木さんの作品を見ていると、次々と自由連想的に頭の中にイメージが浮かんだり、自分の今まで体験して強く心に残っているイメージが引き出されて浮かんでくるようだ。その事がとても不思議で印象に残りますね。
僕は中原中也の詩の空間次数の循環イメージのような詩を思い出していた。

在りし日の歌
作品名読み: ありしひのうた
著者名: 中原 中也 
http://www.aozora.gr.jp/cards/000026/card219.html
青空文庫より
http://www.aozora.gr.jp/index.html

むなしさ

臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)

せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風

白薔薇(しろばら)の 造化の花瓣(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友

偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓の音 つづきてきこゆ