モノトーンのかたち−陶芸の領域にある表現−
カーチャン友人の田中マリコさんの銅版画を観た後で、近くのYODギャラリーに寄り、「モノトーンのかたち−陶芸の領域にある表現−」を観ました。
モノトーンのかたち−陶芸の領域にある表現−
http://www.yodgallery.com/current.html
YODギャラリー
2011年5月28日(土)〜6月25日(土)
3名の陶芸作家さんの展覧会ですが、それぞれまったく異なる作風でした。そのうち、三木陽子さんが在廊されていて、お話聞くことができました。
一見すると、ポップでとてもお洒落なオブジェのように感じるのですが、でもよくよく観てみると、パイプの中の排水にネズミが泳いでいたり、ちぎれた手(切り口は両生類のイメージとなっている)がパイプを握っていたりと、気持ちの悪い様相で組み立てられています。個人的に少し離れたところから見る全体像は自然な様相で、近づいていくと気持ちの悪いような、そんな入り混じった存在が僕はとても好きなので、共鳴できるところが多くありました。
僕は直観的に、僕がアートに目覚めるきっかけとなった心の師とも感じているアーティストの福岡道雄さんの黒い鬱屈とした、でも素材はポリエステルのような軽いもので作られた風景彫刻を思い出しました。
お話をお聞きすると、隠れた見えない世界との境界線のようなイメージを意識されているとの事。陶芸で作る魅力として、どろどろとした造型の状態が、焼成する瞬間にまったく違うものへと変貌するところがあり、それが隠れた見えない世界と境界線のイメージにも繋がっている様子。僕が20代の頃に信濃橋画廊などで制作発表していた銅版画の制作課程も同様に、どろどろとしたアナログの世界と、刷りの結果瞬間的に表れるデジタル的とも言える、複合化されながらも同じ時間に畳み込まれたような世界が好きだったし、共感できるところです。
難しいところは、おそらくそのようなどろどろとした世界と、クリーンなポップな表層とを表現として同時に作品化する時に、単なる説明になってしまう恐れのあるところかもしれません。
会場の床に置かれていた小さな白いタイルに二匹のカエルがぬめっとした感じで一体化した作品があり、ひらい上げて触らせていただいたのですが、例えばこれが浴室やトイレのような一人切りでこもる狭いスペースに埋め込まれていたら、ある時ふっと、底なし沼に落ちていくような気持ちの悪い感触を感じるかもしれません。
アートの力を僕は信じているし、明るい世界へと導いてくれる側面も否定しませんが、私達を支えている仮定の世界の平面を露出させつつ、不安定なものへと、観点の移動を誘導するものであるのかもしれません。
三木陽子
http://www.mikiyoko.com/
会場で名刺いただいたので、転載します
他の二人の作品もとても充実した作品でした。
新宮さやかさんの炭化した花びらのようなオブジェは、こよりのようにねじって作られた小さく細い雌しべを尋常でない集中力で作られています。花という両性具有の器官に美を感じるのは人間の特権と改めて感じるけれど、断片化されたオブジェが集積された世界の全体像との繋がりは感じられない。でも不安ではないようなイメージでしょうか。
北野勝久さんの器はギャラリーの方の解説では、いったん艶のある釉薬で焼き上げた後で、サンドブラストで艶消しの部分を加工されているらしい。器の前に立つと、器に写る自分の姿が細かく切り刻まれていき、部分に断片化されていく。器の裏面は人間の能力の限界によって、決して同時に感じる事はできないけれど、私達は無視して生きることができるように、どこかでいつの間にかプログラムされているような。