文化遺産としてのモダニズム建築 DOCOMOMO100選展 in大阪

地下鉄の駅に展覧会の案内があったので、墓参りを済ませて、家族で帰りに寄ってみた。
お昼に食べたピザが美味しかったので、お持ち帰りに一枚焼いてもらい、BOXに入れてもらったのをぶら下げて、呑気に会場に行くと、初日だったらしく、講演会が終った直後で、たくさんの学生さんらしい人出。講演された先生方が、丁寧に作品解説されていて、厳粛な学びの場の空気が漂っている。
我が家は、バギーに載せた子連れ、手には大きなピザボックス抱え、愛娘はトーチャントーチャンと連呼、まったく場違いな雰囲気で、赤面するが、しかし展示されている作品、特に設計図の原図が素晴らしく、かぶりついて見てしまった。
特に清家清さんの森博士邸の図面は美しく、目に焼きついた。
この近代建築100選というのが、どのような基準で選ばれたのか、よく分らなかったが、ひとつの傾向にまとめきらないで、多様な作品群として、目配りされていて、楽しい雰囲気がある。
でも、自分の中では、近現代の建築は、どちらかと言えば顔を失った、顔を消失させた世界のイメージがあって、それ故に、スケールの縛りから自由になって巨大化していった(もしくは機能の要請から巨大化せざるを得ず、その為に顔的なものを消失させたのか)ように感じていた。そして、その結果、視覚的な意識の領域から遠くなり、無意識の領域に限りなく近づいて、天地を反転させても、成立しているような、頂部、胴部、基壇部のような明確な階梯を持たないイメージの生成になっていると感じていた。会場内の展示で最も自分のそのようなイメージに近いなと感じたのは、吉田鉄郎さんの大阪中央郵便局ですね。この建物は展覧会のカタログ読むと、戦争中に建設されたので、空襲の目標物になることを避けるために、あのようなグレイ色が選択されたとあり、天地の別だけでなく、ランドスケープの中からも、視覚的に消失するような意図が、偶然、戦争によってもたらされたらしく、とても面白いと感じました。建替え撤去が検討されているようですが、何とかあのユニークな雰囲気を保存して欲しいなと思いますね。
会場で個々の作品を解説されていた、先生が、最も初期の作品として1921年の京都西陣電話局を取り上げて、何故、電話局のファサードに裸婦のトルソが配置されているのか、自分にはよく分らないが、と話されていました。僕は、それを聴いて、建築のファサードをもう一度見直して見ましたが、その裸婦が両腕をカットしたトルソであることと、顔も極端にデフォルメされて、水平になり体と一体になって独立した存在、シンボル感の薄い表現であることに注目すると、過渡期のモダンデザインのユニークさが、見えてくるのでは無いかと、感じられるから、あまり機能と表現の関係を硬く捉えると、様々なイメージを見落としてしまうのではないかなと、思いますね。設計者の岩本禄さんは、本当は顔自体も消してしまいたかったのでは無いかと感じました。
最近、特に僕が意識しているのは、水平に描かれた顔の表現ですね。僕の好きなスペインの宮廷画家のゴヤは、最初に、意識と無意識の境界線を同時に表現した作家ではないかと、感じているけれど、ゴヤの描く世界に、時として挿入される、顔の無い世界や、水平に描かれた顔のイメージは、意識と無意識の境界についての、何かを示唆しているように思えるから、重要なはずである。水平な顔について少し研究をしてみれば、いろいろな事が見えてくるかもしれない。
展覧会は、会場の都合故か、2部構成になっていて、10月の中頃から後期の展示になるようですが、できれば同時に同じ会場で観たかったですね。でも素晴らしい展覧会でした。

文化遺産としてのモダニズム建築
DOCOMOMO100選展 in大阪
http://house.sumai.city.osaka.jp/museum/frame/0_frame.html

docomomojapan公式HP
http://www.docomomojapan.com/index_jp.html