シベリア抑留展

シベリア抑留展
5月3日〜7日まで
大阪市北区豊崎三丁目 三井生命大阪ビル2階にて

僕の亡父がシベリア抑留経験しているので、新聞で情報を知り見に行きました。これは子供にはショッキングな内容だから、僕一人で行きました。
父はシベリア抑留のこと思い出したくなかったようで(現在だったらPTSDとして、手厚いサポート受けられたのでしょうが)ほとんど僕達家族には体験を話さなかったので、僕も父がシベリアの、どこに抑留されたのか、今もよく知らないままでした。唯一聞いているのは、父の居た部隊、約500名が投降した時、生き残っていたのは50名程だったらしい。それからシベリア抑留があり、約三年間の抑留生活の後、生き延びて帰国したようだ。記録では60万人の抑留者のうち、約6万人が抑留中に亡くなっているので、本当によく生き延びてこれたなと改めて思います。
父が抑留されたのは、20歳の頃、それから三年間、冬にはマイナス40度にもなるようなところで強制労働させられたら、人間の心はどうなってしまうのか?
運良く生き延びて帰国した人々が、しかし、本来受け取れるはずの、強制労働期間の賃金がさまざまなアクシデントによって未払いのまま現在まで放置されていることも、輪をかけて、心を傷つけることになっているんでしょうね。
このままだと、後10年もすれば、抑留経験者のほとんどの方は亡くなってしまうでしょう。父も含めて、相当数の方が既に亡くなっているのであり、このまま歴史の闇に埋もれていくのかもしれません。主催された「シベリア抑留者未払い賃金要求の会」も、新聞記事によれば設立当初の310名から、現在では200人程に会員が減っているという。
今、僕にできること、会の方にお聞きすると、厚生労働省に父の名前で問い合わせすれば、どこで抑留されていたのか分る可能性があるという。問合せしてみようと思う。
会場に展示されていた絵画の撮影と転載許諾いただきましたので、少し紹介したいと思います。

捕虜規定は語る-鉄柵内に1m以内近寄ってはならぬ
悲劇-1
ある夜、戦友一名、馬鈴薯の皮を拾いに近づき身に十数発の弾をうけ射殺された。
悲劇-2
ある深夜、戦友6名集団で柵外の畠のキャベツを盗みに行き、その帰り鉄柵内で全員射殺された。哀れ・・・キャベツをしっかり抱いて・・・鉄柵に宙ぶらりんになって・・・

戦友よゆるしてくれ
生き残った私たちはこの悲劇を次の世代に確実に伝えなければならない。
着衣を全部はがされ裸身にて屍室に・・・
四、五十体になると外にすてに行く

その他たくさんの展示物があり、いろいろな事を感じさせられました。
会場に置かれていた小冊子購入

会場を後にして、とても正気では居られないし、淀川が近いので、河川敷まで行って、そのまま、ただ川の流れ、風の音、鳥の鳴き声、電車の音、草の色に、ボーと何も考えないで、JRの塚口まで歩いていきました。シジミを採っている人が居たので聞いてみると、まだ採れるらしいし、アーチャンでも安全な場所みたいなので、シジミ採りに今度ゆっくり遊びに来よう。