「祈りの道〜吉野・熊野・高野の名宝〜」展を観る

http://osaka-art.info-museum.net/special016/inorinomichi/special_inori.html
大阪市立美術館のHPより 9月20日(今日まで)

昨日、大阪市立美術館にて、「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録記念した「祈りの道〜吉野・熊野・高野の名宝〜」展を観る。
世界遺産の登録範囲ではないが、霊場の近く、役行者(えんのぎょうじゃ)が開いた岩湧山の休憩施設のプロジェクトに参加していた事があり、興味があって観に行きました。アートというより、大半が信仰対象の装具であり、批評には馴染まない世界であるが、心惹かれる展示内容であった。日本的な「やまと絵」のアイソメトリックパース的な表現は、やはり独特のイメージを感じる。恐ろしい程会場混んでいて、また作品保護のため暗い会場で、怖い仁王像など娘のアーチャンには辛い内容で、辛抱できない状態となり、あまり時間かけて観れなかったが、保存状態の良い鎌倉時代制作の「弘法大師絵伝」は見入ってしまった。それともう一点、「熊野本地仏曼荼羅図」http://www.pref.yamaguchi.jp/gyosei/bunka-h/mandarazu/mandarazu01.htmは手前に狛犬役行者と前後に鬼、そして僧侶が座していて、神殿の階段が透視図的に奥行きがあるが、その上は本地仏が四段組で奥行き無くフラットに積みあがり、それに右下側に丸く抜かれたとこに、これも鬼なのか描かれていて、何とも不思議な世界であった。イコン的な世界と写実的な描写が同時に混在している。
出かける前に断片的に偶然見た「新日曜美術館」のイコン画家、「山下りんhttp://www.mars.dti.ne.jp/~machi/の世界にも直感的に近いもの感じる。オバケ絵としてイコン画を蔑んだという山下りんさんが、イコン画家へとなっていく変容のプロセスに心惹かれる。番組断片的にしか観れなかった事、悔やまれる。
観ていて、数年前に友人が設計した建築に対してコメントした時のテキスト思い出したので、コピーしてみる。

空間とそれを伝達する視覚表現は一つの世界観をつくる。特に西欧においては遠近法の発見によって、ルネッサンス以前の、奥行きの無い平板な様式的な表現(神中心主義的世界観=神においては影や歪みは生じないとする)から、人間を主題とした、人間の眼を通した表現が獲得された(人間中心的世界観)。
事物の背後に眼に見えない真理があるとする人々(神又は原理中心主義的な)と、人間の眼に映る遠近法的に配列されたこの世界だけが真理とする人々(人間中心主義的な)との思想上の対立は、現代においても決着のつく話でもなく、さまざまな言説がなされている。
思想上の対立を離れて、人間の眼の機能の研究成果から、空間とそれを伝達する視覚表現の新しい立脚点が得られるのではないかと思う。人間の眼の機能のうち、「大きさの恒常性」(物体からの距離が変わってその網膜像の大きさが変わっても、距離が変わったと認識し物体そのものの大きさは同じに感じる現象)に立脚すれば、奥行きの無い平板なロマネスクな表現が従来考えられていたような神や原理の表現ではなく、むしろ人間の認識に近いのではないかと感じてくる。そして遠近法的な表現が実はむしろ原理主義的表現を多く含んでいるとも感じられる。やまと絵の世界は遠近法的な表現を回避しつつロマネスク的表現の、まったく歪みの無い神の世界とも異なった、かつ「大きさの恒常性」を自然に現している。環境問題を通して人間中心主義の、人間を基準として物をつくる態度の限界が明らかとなった今、原理的なある意味で決定論的な世界と、人間的な偶然性を含めた非決定論的な世界との区分を無意味化する、新しい世界観が求められている。モダニズム的均質空間は決定論的な構成原理が支えていて、人間の振る舞いは、その座標の中でのランダムな動作にすぎない。そこには亀裂が生じている。やまと絵の表現世界は、決定論的世界と非決定論的世界とが緩く結合され、空間とそれを伝達する視覚表現は一体となって、無限の可能性を生じ始める。
1999年8月25日