朝食の前に、顔描く

たくさんの顔描く。草間彌生のアートのようにも見える。http://www.yayoi-kusama.jp/j/information/index.html

伊藤若冲の群鶏図のようにも見える(訳がない、親バカです)
アートボンさんの資料HP参照http://park5.wakwak.com/~birdy/jakuchu/index2.html
若冲も人間嫌いで有名な人だったようですし(ブルーナさんがそうだという意味ではないですが)彼もまた、混じり合った感じのもの、あまり無いですね。群像ではあるけれど、関係性が希薄というか無いような感じがする。基本的に若冲は重ね書きはやらなかったようだし。もう少し研究してみよう。

視覚と輪郭の問題は、様々な問題提起する。
「レイアウトの法則 アートとアフォーダンス佐々木正人著から引用

(前略)人に近づけば皮膚が見え、遠ざかれば顔が見える。山に近づけば木肌が見え、遠ざかれば森が見える。皮膚も、顔も、人も、木肌も、森も、山も、肌理である。
 このように肌理はどこにでもあり、そして肌理どうしは繋がっている。(中略)いままで見ていた肌理がどこで終わり、どこから新しい肌理が見え始めたかは言えない。(中略)
 本書がレイアウトとよぶのは、この肌理の性質を持つ周囲のことである。周囲にはレイアウトがある。レイアウトには他に例のない仕方で世界を繋げている。私達はレイアウトを知ることで、世界の「全体」を知ることになる。
 これまで人は、周囲にあることを物とよんできた。物には他との境界がある。だから一つずつ名前をつけられる。人は物を発見しては名前をつけてきた。辞書には膨大な名詞が収められている。人はさらに、物の輪郭を平面に表現する遠近法という技術を発明した。人は輪郭と言語、この二つで世界を明晰に記述できると考えてきた。
 しかし周囲にあることがレイアウトだとすると、世界を区切り取るこの方法は無効になる。
なぜならレイアウトには輪郭がない。入れ子しているレイアウトに名前をつけることには無理がある。(後略)
2003年7月25日 佐々木正人

PWSは空間記憶が優れている部分があり、絵画において、分離したものへの指向があるとすれば、上の佐々木さんのアフォーダンス論手掛かりに考えると、言語の能力もまた、独特の能力あるのではないか?と逆算的に思ってしまう。
佐々木さんの言われる、レイアウトには輪郭がないというのは、アフォーダンスの提唱者のギブソンの理論からの転用であるが、人間の感覚はゼロサムではなく、言語的に分離した世界と彼の言うレイアウト的視覚世界を往復するものだと感じる。世界をあまり常に「意識的」に眺める姿勢は僕は好ましいとは思わない。

PWSの場合はたぶん、視覚的な分離の傾向が極端になるのでは、ないかと想像する。
アーチャンがこれから描いていく絵画や、言葉や、文字をそのような視点から見る(子供を観察してはいけませんけど)と、その能力を生かす分野が開発できるかもしれない。
そう言えば、このあいだ、母子保健センターへ検診で行ったとき、カーチャンが歩道橋でハンカチ落ちていたのを落とし主周りに居ないので、手すりにくくり付けていったらしい。途中合流した僕はその事は知らず、帰りそこを通りかかった時に、アーチャンが物凄く興奮して、後ろ指差すので、何か落としたのかと思い探してるうちに、カーチャンも5時間ぐらい前のこと思い出し、ハンカチがまだ在ることに気づいたという。こういうエピソードをストックしていけば、かならずこの子達の得意な部分見えてくると思う。
でも、PWSの場合は、もう少し複雑な視覚かもしれないね。
よくよく見ると、分離はしているけれど、輪郭線は非常に曖昧である。そう言えば、以前コメントいただいたPWSの女の子の家庭教師されていた方も、同じようにオブジェクトは捉えているけれど、線画にはならなかったところ、アーチャンに似ていると言われていたね。
やはり断定するのは、今はしないで、とにかく自由に好きなもの描かせよう。