束芋:断面の世代

日曜日に行く予定でしたが、国立国際美術館の案内読むと、今日は入場料無料の日らしく変更して行きました。
以前にキリンプラザがまだあった頃、「キリンアートプロジェクト2005」で一度拝見していましたが、その時の印象から作られているもののテイストはあまり変わっていない感じでしたが、変化されている部分もあるように感じました。

2005年の僕の感想

束芋さんの作品は、完成度の高い作品でした。円筒形の大きな走馬灯のようなスクリーンにシームレスに写される、巨大な手と足のパーツが粘土細工のように変形合体分離しながら、気持ちの悪いリズムで、延々と動いている。顔を失った世界が無限に繰り返されるような息苦しいような感触。最後にこれも気持ちの悪い羽根の枚数の多いバッタが出てきて、宙に消えていき、何かに食べられたような音とともに、透明な羽根だけが舞い落ちてきてお終いという構成。見えない存在が決定的な行為をなしていて、エンドレスな世界にとりあえずの終止符、安定のサイクルをもたらすという構図は、個人的には、あまり好きではない。エンドレスにただ繰り返されているだけの映像では作品として成立しなかったのだろうか?

「エンドレスにただ繰り返されているだけの映像では作品として成立しなかったのだろうか?」という僕の印象は、今回も同様に感じる。
作品自体はエンドレスに流されているので、観る人はたいてい、途中から観るので、始まりのポイントは曖昧で、延々と繰り返される気持ちの悪いような人体やインテリアの変形のシーンの後に、全ての要素が清算されるように消えていき、ある場合は白い鳩みたいな鳥が羽ばたいていく。始まりは曖昧だけれど、終わりの部分は確実に作者と共有できる流れになっている。(ジョン・ウーの映画の決めシーンみたいに)
束芋さんはおそらく自身のアニメーション作品を凝視しながら自己が治癒されていくような感覚を得ているのではないかと空想する。
僕自身も、EMDR的なセラピーを知る前から、アイデアが煮詰まったり、精神的に苦しい時に独自にやっていた眼球運動とイメージの整理のようなもので、何故か頭に浮かぶのは白い鳥のイメージが多くあり、やり続けて行くうちに、最初から白い鳥のイメージを浮かべて心の安定を促すようになっている自分に気付いていたから、余計に今日のアニメーション作品はそうではないかと思いました。
変化の部分は、最後のBLOWという作品の前の部屋にあった、6枚の小さな画面に、微妙に少しずつ別々に動き出す植物の作品に感じました。展示されていた他の作品が、作品の側でどんどん動いて視野の中で受動的に流れていく感じであったけれど、この作品では、どの画面が動くのか、こちら側の反射神経が試されているようで、それまで見ることを強制されていた感覚が急に自由にされたような(それ自体も狙いであるとすると、かなりうっとしい作家であるが)状態になり、必死で追いかけている自分が居る。

束芋:断面の世代
http://www.nmao.go.jp/japanese/b2_exhi_beginning_tabaimo.html
国立国際美術館より引用