前谷康太郎「(non)existence」展

午後、此花区の梅香堂へ行き、前谷康太郎「(non)existence」展を観ました。

前谷康太郎「(non)existence」展
http://www.baikado.org/docs/home.html
梅香堂より引用

まったく知らないアーティストさんでしたが、画廊のHPの作品画像を見ていて、積み上げられたモニターの明滅のパターンが眼球運動を促すようなユニークなものではないかと感じて、個人的に興味持っているテーマでもあるので、観ておきたいと思っていました。
会場の1階にスクリーンがあり、そこでは夕焼けの光景を四角く切り取ったようなシーンが連続して流されていました。
2階には、会場の土壁を写して四角く切り取ったモノクロ写真と、空の雲をモノクロ反転した少し縦長の写真作品が数点、横長のモニターに映し出される日本各地の気温変化を同時に視覚的に表示して明滅する作品(HPにあったモニターを複数積み上げた作品はこのパターンであったらしい。今回は会場のスペース的なことから、ひとつのモニター内に表現がまとめられている様子)、それと、小さなモニターに映し出されている夕焼けの光景(背景の窓との関係性もある様子)
前谷さん在廊されていたので、少しお話しました。
空の雲のモノクロ反転の作品は、20代の頃僕が制作していたエッチングのイメージにも近くて、そのテイストや飛び飛びの変化の様は個人的にはとても好きなイメージですね。
画廊のオーナーさんと出会われた際に、光のイメージに表現を絞るようにとアドバイスされたそうですが、個人的には、光のイメージと共に、それを表現するフレームというのか、黒く太い額縁的なものへの嗜好が感じられ、それによって切り取られたイメージが再度積み上げられ、並列化されている様が面白いと感じました。スマートではないし、それ無しで表現した方がよりストレートに光のイメージが伝わるかもしれませんが、その分離のされ方というのか、うまくいかない感じに惹かれます。
モニターの明滅の中に眼球運動によるセラピー的な効果(例えばEMDR的な)をイメージされているかどうか、については、過去に大きな作品を手掛けた際に、端から端まで明滅が移動する為、眼球運動的な点を指摘された事はあるが、それによるセラピー的な事は考えていなかったとの事。でも興味は持たれた様子。
僕自身が眼球運動的なセラピーに興味を直接持つようになったのは、娘のアーチャンへの認知行動療法を知るために、専門書を借りて読んだ時に、でもとても専門すぎて難しく、なかなか理解出来なかった時に、その専門書の最後の章にEMDRという、主にPTSDの治療法として開発されてきた眼球運動によるセラピーが載っていて、その概要を読んだ時に、これは今まで自分が無意識に制作してきた作品のベースの部分であったり、また発想が煮詰まった時にしていた眼球運動を促すような、ルーティンではないかと。
もちろん、EMDRは精神科の専門家による、医療行為ですから、素人の自分が真似て簡単に出来るようなものではなく、あくまで「EMDR的な」という感じで括弧付きのものでしかありませんが、でもこれを発見した精神科の先生の、その発見のエピソード自体は、これは誰にでも起こり得る普通の現象だし、それにメタな視点で気付いた精神科医のユニークさと感じます。(フランシーン・シャピロにより1987年に開発。彼女が散歩をしていて、自分の眼球を無意識に左右に動かした時、それまでの不安を生じさせる思考が消えた事に気付いた事が発端)
世界の全体像の獲得は人間的能力の限界によって不可能であるし、断片的なものの集積によって補っていくしかないけれど、でも不安ではない、そのようなイメージ世界が僕は好きだし、今日の前谷康太郎さんの作品にもそのようなイメージを感じる事ができました。

EMDR(イーエムディーアール、Eye Movement Desensitization and Reprocessing;眼球運動による脱感作および再処理法)
http://ja.wikipedia.org/wiki/EMDR
ウィッキペディアより引用

久下典子展/シェ・ドゥーブル

午後、知人の小谷廣代さんが経営するカフェ&ギャラリーのシェ・ドゥーブルへ行き、久下典子展を観ました。
明るく多彩な色調のタブローの画面に薄く浮かび上がるウサギのキャラクターの顔のイメージ。会場に置かれていた過去の作品ファイルの作品は、モノクロ的な、もっと複雑で顔的イメージが感じられはするけれど、周囲に解けているような印象があり、今回の展示作品は、かなりイメージが顔的キャラクターの方へ偏らせたような印象があります。
僕の物作りの際のテーマとしている「顔/カオス」的世界のイメージも、少し近いものがありますが、でも直接的な顔的表現という訳ではなく、分母分子の関係でもなく、フォークロアな都市や建築が自然と備えている属性のようなものであるし、それを現代都市や建築は少し失ってしまったのではと感じている。
自然と備えているものを、アートの作品世界に人為的に人工的に作り出すことはとても難しい作業ですが、でもフォークロアな都市や建築も、あくまで人間によって作り出されたものですし、不可能な事ではない。おそらくそこには繰り返し作り続けることで得られる、その人なりの方法やスキルが要請されると思うし、とても時間のかかる、気の長い作業なのであろうとも思う。
僕はいつも、高校生の頃の体育祭のバックに描いた、イースター島のモアイ群像のことを思い出す。ランドスケープの中に微妙な笑みを浮かべながら並ぶモアイ群像は、僕の「顔/カオス」的世界のイメージの原点でもあるのだけれど、イースター島の人々が、長い歴史の果てに、それを作り続けることがあまりにも強く目的化された為に、過剰となり環境破壊の末に滅んでしまったという悲しい歴史の事を。そのような過剰さもまた僕の好きなイメージでもあるけれど。