特別展「恐竜の卵展」

長居公園内にある大阪市立自然史博物館へ家族で行き、特別展「恐竜の卵展」を観ました(ブロガー無料招待に申し込んで、今回もラッキーに当選しました)

恐竜の卵展
http://dinoeggs.jp/
webより引用

過去、何度かの自然史博物館での恐竜展を継続して観てきたので、卵という切り口での展示は今まで理解してきた知識を横断的に繋げてくれますし、新たな視点も知る事ができました。
6年前の2012年に観た、特別展「発掘!モンゴル恐竜化石展」で

モンゴルの大地は大陸プレートの上に位置するので、日本のように変動が激しい場所とは違い、後期白亜紀以降に大きな地殻変動が無く、地層が平なままの状態だったので、化石も細部まできれいに残っているので価値が高い
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20121123/event

という解説がありましたが、今回の展示で中国や東アジアの恐竜の卵の化石が多く展示されていましたし、やはり大陸プレート上にあるが故なのかと推測しました。

また、同じモンゴル恐竜化石展で感じた

「前回の「新説・恐竜の成長」展で感じた恐竜の親から子への愛情のような心の動きや、最後の瞬間まで生き延びようともがく命の鼓動を今回も強く感じました。「新説・恐竜の成長」展はどちらかと言えばエンターテインメント的な演出の面が強かったこともあり、そう感じた部分もありますが、今回のモンゴル化石は演出ではなく、それ故に心に響いてくるものが違うように思います。特に、巣の中で卵を抱えつつ息絶えたと思われるシチパチという恐竜の化石の美しさに、言葉を失いその前で立ち尽くすことしか出来ませんでした。」

と感想を書いていましたが、今回も孵化直前に何らかの変動で埋もれたまま死んだ卵の化石や、卵を体内に抱えたままの母親恐竜の化石が印象に残りました。

恐竜も子育てをしたのではという仮説と、進化の過程で、最初は卵を産みっぱなしで土を被せるだけであったのが、土の上から覆い被さり温めるようになり、卵は半分土に埋める程度で直接体で卵を温めるようになる姿に、私たちの抱く感情に近いものを恐竜達も少しずつ獲得していったのだろうと感じますし、その事がとてもよく伝わる展示構成になっていたと思います。

それにしても、多様な形の卵がありますね。

娘のアーチャンはやはり触れることの出来る展示が楽しい様子でした。


博物館を出た後、長居公園の梅林がちょうど満開で観ていると、たくさんのメジロたちが花の蜜を吸いに集まってきていて、この本当に小さな美しい小鳥が恐竜の末裔であるなんて、ちょっと信じられないですが、気の遠くなるような長い時間の経過とともに、姿を変え、生態も変えつつ、生き延びてきた命のちからを改めて感じました。

「Transfer Guide」加藤 巧 × 前谷 康太郎

「Transfer Guide」加藤 巧 × 前谷 康太郎
http://thethree.net/exhibitions/4792
the three konohanaのwebより引用

午後、家族と伺いました。
加藤さん、前谷さん、お二人とも居られ詳しくお話しできました。

加藤さんのここで拝見した前回の個展のすぐ後に、私は兵庫県立美術館でのポンペイ壁画展を観て、フレスコ壁画の修復方法のなかにモダニズムに溢れた極細いストライプによる修復部を明確化するユニークな方法のレクチャー受けて、すぐに加藤さんのテンペラ画の点描法を思い出しレビューの最後のところに書いていました。

ポンペイ壁画展
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20161127/art

これら修復の手法や、また断片を集積して、完全に破壊されて復元できない箇所は空白のまま余白のまま残しつつの方法を見ていると、そのテイストのなかに、現代アートの視点と似通ったものを強く感じました。
最近、このはな区のthe three konohanaさんで拝見した、テンペラ画の加藤巧さんの絵画を私は思い出していました。

加藤巧「ARRAY」
http://d.hatena.ne.jp/prader-willi/20160803/art

加藤さんの作品は、フレスコ画ではありませんが、フレスコ画のその後の進化形のような手法ですし、加藤さんの自己のドローイングを、テンペラ(溶剤に卵を用いる)で小さなドットに分解して細密に再現していく様と、今日拝見した、ポンペイ壁画のフレスコ画修復での、バーコードのような縦縞による修復の有り様とが、とても重なって見えてきて不思議に感じました。

おそらく、修復というクリエーションでは無いが、過去の時代の遺産に見事にフィットする感覚が、ほんの少し前の過去の自分のドローイングの精密な再現の感覚と、重なって感じられたのでしょうし、そのテイストは、現代の私達の感覚とも、馴染み易い感覚なのではと感じました。

そして、その事が今日も来るまでずっと思い出されてきて、不思議な思いでしたが、今日の展示作品の手法に、極細のストライプを観て、上記のこと、加藤さんにもおつたえしました。
自身のドローイングを、極細いストライプによるテンペラ画でトレースされた画面は、画面自体ストライプに切断分離され等間隔に並べられている。
この展覧会直前に加藤さんも観られた国立国際美術館での福岡道雄さんの回顧展の風景彫刻に対する共感を共有できたのですが、私は福岡道雄さんの彫刻に出会った20代の頃に、そこから「意識は瞬間的に世界を分離し断片化し、無意識はそれを緩慢に接続する」というイメージを得て居て、今日の加藤さんの分離されたテンペラ画のなかに、とても親いイメージを感じました。
もう一つの、小さなセメント版に描かれたフレスコ画は、その形状がまるでドロップ缶やオイルサーディンの缶のようなサイズ感で、絵画のイメージと有機物(食べられるものとして)との境界線が曖昧な印象の物体のようでした。それはノンヒューマン環境論の人間と環境との行き過ぎた互換性のぎりぎりのところで立ち止まっているような印象があり、こちらも深く無意識にダイレクトに届いてきました。

前谷さんの作品は久し振りに拝見できました。
いつものゆったりとした呼吸のような映像ではなく、UVプリンターを用いた多様な素材への写真プリントや、日焼けの固定化のようなカーテンの作品など。
私はスティール画というものは原則的に存在せず、全ての視覚的な感覚は動的な存在と思っていて、前谷さんの作品も4個のグルーピングによる(視覚認知的には瞬時に判別できるスービタイジングと呼ばれる階梯)構成が、ムービーの断片のようで、目が作品を動かしていく。

Subitizing
http://en.wikipedia.org/wiki/Subitizing
Judgments made for displays composed of around one to four items are rapid

かなり以前に拝見した、中之島公会堂での、そこにある重厚なカーテンに映し出された前谷さんの映像を思い出しました。あの時の自分はいったい何を観てるんだろう、という感覚は得難いものだと、改めて思いました。
加藤さんの作品に感じた「意識は瞬間的に世界を分離し断片化し、無意識はそれを緩慢に接続する」と同様のイメージを前谷さんの作品にも感じます。
偶然性に対する受容が前谷さんの場合、加藤さんの作品に較べ、より不可避的というのか、それが作品の基本的な骨格を形作っているように感じる。